五十にして天命を知る
2012-10-15 07:11
というわけで、40の声を聞いたのはついこないだのような気がするがもうすぐ50になる。
20台のころ、母が高校時代の同期会にいって「みんな年はとってるけど中身は全然変わってないよ」と言ってた。その時はそんなもんか、と思って聞いていたが自分がその年になると実感できる。あれは本当だ。
いや、少しは変化がある。丸くなるとか枯れるという言葉から人が想像するのとは反対の方向に。
安田登氏によると、「四十にして惑わず」の「惑」は昔は「域」と同じく「区切る、制限する」という意味で、つまり「四十になったら自分を制限するな」というのが本来の意味ではないかと推測し、内田樹氏もそのほうが次の「五十にして天命を知る」のつながりが良いと賛同している。
via: OL男子の4コマ書評 : 内田樹氏×安田登氏の論語新説「四十歳になったらむしろ迷え」と論語4コマ化のためのメモ
この解釈によれば、40にしてロックの魂を得ることになる。そして50は「こっち」と方向が決まるというころだ。今朝こんな文章を観た。
七十歳だという串田和美さんが、
via: ほぼ日刊イトイ新聞 - 目次
枯れて落ち着くのではなく、
肉体と思考とが転げ回るような芝居をやるとは、
正直言って想像していませんでした。
串田さん自身と、笹野高史、小日向文世という、
自由劇場からの同志のようなふたりを軸にした、
俳優たちも、全力で遊ぶコドモのようでもありました。
なんなんだろう、こんなふうな、
年齢が高くなってからの情熱って。
じぶんの考えてきたこと、やってきたことの
すべてを並べて触って確かめたいのでしょうか。
ちっとも大人ぶってないのです。
多くて、大きくて、初々しい。
自ら望んで取り込んだ「過剰」を感じるのです。
この言葉を読んで思い出したのは、宮崎駿である。千と千尋はまだわけがわかったが、その後のハウルの動く城、それにポニョは正直わけがわからない。
「もう、つじつまとか整合性とか、わしゃ知らんの! 今回は無意識のリミッター全面解除して作っちゃうんでよろしく! 母親が危険運転して事故ってペシャンコになったとしても、どうせこれはアニメなんだから死なないし口から空気入れで膨らませれば元に戻るの! アニメだから魚が半魚人になって人間になってもいいの! 作品がグチャグチャで、バカとか狂人とか思われてもいいの! 理由とかつじつまなんて面白くないの! アニメってそういうものなの! 面白ければわしゃなんでもいいの!」
という意思表示だと解釈しました。ここまで開き直っている人に対して、作品の整合性がムチャクチャじゃないかとか、人として許せないと言って非難するのは、まったくその通りなんですけど、おそらく言っても無駄なのではないかと思います。
via: パンダとポニョ(3): たけくまメモ
宮崎氏は71歳。まあ孔子のころとは人間の年齢が異なるから一概には言えないが、彼は60代の時に
四十にして惑わず
の悟りを得たのではあるまいか。
というわけで風邪気味なので、唐突に終わる。