社会人として必要な資質
2013-03-19 06:48
学生さんの研究発表を聞いてコメントすることがある。
先日聞いたものは「羊頭狗肉」としか形容できないものだった。最初のコンセプトを聞いたところで誰もが
「をを、これはおもしろい」
と身を乗り出す。
ところがその学生さんがやっている「評価実験」は肝心なところを教示で与えた上での、ソフトのユーザビリティ評価。最初に舞い上がった希望がしゅるしゅるとしぼむ。言っていることとやっていることが全然違うじゃないか。
それを指摘した所、回答は
「今のシステムはまだまです。皆様の意見をいただいてよくしていきたいと思っています」
この回答を聞いて2重の意味でがっかりした。
まず一点目。話が全然通じていないということだ。やっていることが「不十分」なのではなくて「間違っている」と指摘したのだが「まだまだ不十分なのでがんばります」。東京から大阪に向かいます、と宣言した上で北に向けてひたすら走っていることを指摘したのだが、返ってきたのは一生懸命北に進みます、という回答。こう言われると「がんばってください」としか言い様がない。
しかし
本当にがっかりしたのはそういうことではない。これは社会にでてから必要な資質だ。特に出世しようと思えば。出世する人間は、自分が利害関係にある人以外の言葉はほとんど聞かない。部下に意見を言ってくれとはいうが、それを聞くとは誰も言っていない。嘘だと思ったら上役に「本当のこと」を言ってご覧。
研究会でコメントする人間は、その学生さんにとって何の利害関係にもない。「そんなこと」をいちいち真に受けて悩んだりするほうがずっとよろしくない。
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働く上での「立派な言葉」は世の中に多く存在しているし、インターネットの普及でそれらに容易に触れるようにもなった。
しかし
最近Wikipediaで、帝国陸軍の将校たちがどんな運命をたどったのかを見ている。他人には自決を強要し、自分は逃げた上で天寿を全うした人間がいかに多いことか。こういう組織にあっては「責任感があり、立派な人」ほど早く戦死、もしくは自決し、生き残るのは「立派な言葉」の反対に生きている人ばかりだったに違いない。無責任で、上司だけにぺこぺこし、部下を必要以上に痛めつけ、そして自らが招いた結果、自らへの批難を顧みない人達。(辻とか服部とか富永とか牟田口とか)
それが帝国陸軍のみの現象だなどと誰がいえよう。世の中とはそうしたものだ、と考えるとき、私が言っていることが正しいなどとどうして言えるだろうか。
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そう考えると、研究の場で学生さんにどうコメントするべきか、と考えることになる。自分が信じることや「キレイ事」をいうことはたやすいが、それは現実世界と合致していない。現実世界において私が何をしているかをみれば、それは明白だ。「間違った事」を声高に言うのは果たして責任ある行動だろうか。
というわけで相手の反応をみつつ発言する、ということになる。話しを聞いてくれそうな人には積極的に議論する。聞く耳持たない人にはにっこりと笑って「がんばってください」と言う。これでお互いHappyだ。