失敗すること
2013-04-22 07:07
偶然2つの文章を読む。
「私達の立場からすると、プロに名手妙手をたくさん指してもらい、全敗したいのです。負ければそれが貴重なデータになるからです」そうか、コンピュータ将棋ソフトは、負けて強くなる。人間は負ければ弱くなる。それじゃ立場が逆転するのは時間の問題だ。
via: 第2回将棋電王戦 第4局 電王戦記 - 河口俊彦(ニコニコニュース) - BLOGOS(ブロゴス)
ルールがないので、三星は失敗もしますが、斬新なチャレンジもする。
ルールを守ることに汲々とするより、まず、やってみる。
そして、失敗して直した方が、失敗を恐れて停滞するより良いのではないか。
15年位前の話ですが、自分も、実際に、三星と共同でフラッシュメモリを開発して、彼らから多くを学びました。
これは、明文化したルールだけでなく、心理的な面もあります。
日本では、ちょっとしたルール違反を口うるさく言う人が多すぎる。
むしろ、いまの日本に必要なのは、失敗を叱らないこと。
チャレンジしないことこそ、恥ずべきことじゃないですか。
規則にがんじがらめの組織、規則の中身を考えもせず、規則ををひたすらまじめに守ろうとするカルチャー、こういったものを変えないと、日本の復活はないと思う。
via: (ブログ更新)まじめに規則を守って仕事をすればするほど、ダメになっていく日本 - 竹内研究室の日記
負けて、失敗して強くなる。これは日本語をしゃべっていると「言うは易し行うは難し」だと思うことが多い。そう。失敗を恐れちゃいけないよ!そうはいっても、こことこれとあれは抑えてもらわないと、それにこれも考えなくちゃね、とかいっているうち
「なにもしないのが一番」
という結論に達する。
日本語をしゃべり、日本の文化の中で育った私には
「今までと同じことを文句を言わず繰り返すのが尊いこと」
という概念がどっか根底にあるのではないかと思うことが多い。それが悪いなどと一般化するつもりはない。震災の後はそれで日本は平和だった。前にも書いたが、アメリカで地震があると軍隊が出動する。それは略奪、暴動を鎮圧するためだ。救助のためではない。
しかし
どんな性質もそうだが「時々無視し、時々使う」ことを覚えないと大人とはいえん。これも我が国にある「型」の弊害と言えるかもしれない。
---------
先日Bostonマラソンに爆弾をしかけた男たちの逮捕劇をずっと見ていた。そして「勝利宣言」とその後のBoston市民たちの歓喜の様子に少し驚いた。
これが我が国で同じ事件が起こったらどうなっていただろう。街角で喝采を叫ぼうものなら「不謹慎だ。人が死んでるんだぞ!」と誰かが言いソーシャルメディアで叩かれまくる。そして警察関係者は「すばらしいチームの働きだった」などとは口が裂けても言えないだろう。メディアも「Bostonは今日ようやく安眠できます」などとは言えず「情報開示、危機管理」という言葉を振り回し誰かを批難し続ける言葉に満ち溢れることだろう。
この差異はどうしたことだろうか、とずっと考えている。思うに彼の国では
「生きていく上で争い、問題は避けられない。それに立ち向かうことが尊い」
という概念が根底に有り我が国では
「正しく生きていれば争い、問題は起こらない。問題が起こったとすれば誰かが批難されるべきだ」
という概念が根底にあるのではなかろうか。
とかなんとか書いているが、ここから発展しないので今日は唐突に終わるのであった。