常識と付き合うこと

2014-02-17 07:11

常識というのは偉大な代物だ。子供の様子を見ていると、大人になるとは定義の曖昧な常識というものとのつきあいかたを覚えることではなかろうか。

いろんな世界に常識が存在するのだが、年をとるとその常識があっというまに覆ることを何度も目にすることになる。確かに常識は大切だが、それが間違っている可能性にも常に目を向けておかなくてはならない。

これは1932年の冬季オリンピックの様子。一分すぎあたりからみると当時のジャンプ競技の様子をみることができる。

この頃のジャンパーはほとんどが着地後に転んでいる。しかし私が指摘したいのはそこではない。誰もが手をぐるぐる回していることに気がつくだろう。

私が小学生の頃よんだ「冬季オリンピックの秘密」とかいう本には、「ジャンプには2つのスタイルが有り、踏切後に手を前に伸ばすスタイルと、体の横につけておくスタイルだ」と書いてあったと記憶する。このころは「手をぐるぐる回さないと飛べない」と誰もが「知って」いたのだ。

そのあとニッカネンというのがでてきて、彼はスキーを前方でクロスさせていたように記憶している。ニッカネンはほとんど無敵でそのころは「なるほど、こうしなければ飛べないのか」と思っていた。そして多分真面目な顔で、「スキーをこの様に交差させるんだ!」とか指導していたのだろう。

そして最近は先端を開き、かつ少しスキーをひねるのがよいことになっている。かくのとおりコーチがどれだけ真面目な顔をして「常識」を説こうがそれが正しい、という保証はない。

しかしスキーのジャンプにおいてこのように「常識」が覆ってきたのは、その「成果」が飛距離という客観的な指標で計測でき、かつ誰の目にも明らかだからに他ならない。そうした客観的な指標が存在しない世界では狂ったような常識がいつまでも生き続ける。そしてその常識を身につけた人間はそうでない人間をそれ故にののしることすらできるのだ。

そうした世界では上司は「お前のジャンプは、手の回し方が足りない!」と怒鳴っているのだろう。そんな光景がぼんやりと思い浮かべられる。