自分が身をおく環境について考えること
2014-02-10 07:12
少し前に読んだこの文章。
良いデザインは集団で生起する。 15世紀のフィレンツェには、 ブルネレスキ、ギベルティ、ドナテルロ、マザッチョ、フィリッポ・リッピ、 フラ・アンジェリコ、ヴェロッキオ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてミケランジェロがいた。 その当時、ミラノはフィレンツェとほぼ同規模の都市だった。 あなたは何人のミラノ出身のアーティストを挙げることができるだろうか。
via: 良いデザインは集団で生起する。 15世紀のフィレンツェには、... - nakano.tumblr
それと最近読んだこの文章
これを、僕は、「育ち」と呼びたいのだ。そして、それを優性な成分と認識して、クリエーティブ・パースンにとって貴重なものと考えたいのだ。ここで言う「育ち」とは、当然、家が金持ちとかは1ミリグラムも関係ない。
今までの人生で、どれだけいいものを見て、どれだけいいものを聴いて、どれだけいいものと接してきたか。
今までの人生で、どれだけ自分のアタマで考え、どれだけ自分のコトバで話してきたか。
今までの人生で、受けてきた愛情の質と量の総体。
というような意味内容を「育ち」と謹んで呼びたい。話がだんだん感じ悪くなってきてるが、ひとつめも、知識・勉強のようなことだけを指すのではなく、年中一緒にいる人、なんとなく近くにいる人、初めて出会うリスペクトできる人、いわばコンテンツとしての人々が決定的な作用を及ぼすことを指す。
via: 彼女は何と何と何と何でできているのか | AdverTimes(アドタイ)
この2つの文章は長年自分の中に潜在的に存在している不満に火をつけてくれる。つまり私はもっと居心地の悪い状況に自分を置くだけの努力をしなければならない、と思うのだ。
今回の都知事選にはいろいろな人が立候補した。どうもそれぞれの人は、それぞれの居場所を持っており、そのコミュニティの中でとても快適に暮らしているように見える。それらが「都知事選」という横一線の環境におかれたとき、人々は様々な判断をするわけだが、そういうことがなければ、彼らはそれなりに幸せなわけだ。
どうなのかなあ、と思っているような人でも多分周りには賛美者がたくさんいるのだろう。その姿を見て何か批判的な事を言いたくなるのであれば、まずは自分の姿を鏡に写してみる必要がある。(いや、私の周りに賛美者なぞいないけどね)
年をとるに従って、ほとんどの場合人は他人の話なんぞ聞いていない、ということに気がつく。聞くことがあるとすれば、それは自分の中に(潜在的な顕在的かにせよ)ある意見を他人が言った場合なのだ。であれば、元から考えているところがかけ離れている場合、会話はほとんど成立しない。というわけでニコニコ「そうだねえ」といって暮らすことになる。平和だ。しかし多分それは間違っている。
自分の何かに不満を感じるとすれば、それが存在する責任も、それを解消する責任も自分にあるのだが、今のところどうすればよいのかよくわからない。