ある社長の思い出
2014-04-09 06:53
社長といっても大企業の子会社だから、「片道キップ」を渡されて落ちてきた人である。
しばらくつきあっているうちに、会話のパターンが見えてきた。何を話していても3分後には自分の自慢話(と自分が思っているもの)になるのだ。親会社のエンジニアと共同で、親会社から表彰を受けた社員がいた。それについて一言褒めたあと「組んだ相手がよかった(つまり親会社の社員)」「あの社員は私が育てた」「私はこんなすごいことをした」までたった2分で移行したのにはさすがに驚いた。
そのうち彼は会社のゴミ箱の状態をチェックするのが朝の日課になった。そしてちゃんと分別がなされていないとうれしそうに
「燃えるゴミのところにこれを捨てた人がいる。そうい奴は出社するに及ばない」(要するに首にする、ということ)
と宣言した。まあ大企業の子会社というのはこういうものだ。ただ彼が何をそれほど怯えているのかだけがよくわからなかった。想像するに無能だということは誰にでもすぐわかるのだが、多分彼の認識能力はそこまで及んでおらず
「自分の無能さを発見されたらどうしよう」
といつも怯えていたのだと思う。
昨日、こういう記事を読み反原発の人たちと同じロジックが根底にあることに気がついた。
目的:自分に力があることを確認する・・・ために
手段:自分以外の誰か/何かをコントロールしようとする
という行動が共依存的人間関係の根本にあるのですが、そもそも
「自分に力があることを確認したい」
と思っている人というのはどういう人かというと
「自分に力があるという実感がない人」via: 放射能被害の発生を声高に訴えてきたオオカミ少年は、悲劇を望むようになる : アゴラ - ライブドアブログ
震災以来「"正義の味方"という処刑人になりたい人たち」がたくさん湧いてきた。いろいろな動機の人がいたと思うが、「自分に力がある実感を得る」ために騒いでいる人たちも多いのだろうな。