2種類の感動
2014-05-27 07:00
来週はWWDCですね。僕は行けないけど。きっといろいろ驚くような発表があると思うので、今週は静かです。(関係ありません)
ここしばらく表のブログに書こうとして「デザインとは何なのか」について考えている。ヒントとなったのはこの言葉だ。
僕らの頭の中にあるイメージは、言葉でもなければ映像でもなければ音声でもないですよね。
それは絶えず蠢いている複雑で果てしない思考の連続で、一見膨大で捉えようのないものです。
音楽はもちろん、文学も、映画もダンスも料理も写真も、そいういうものの一部を体感できる何か別の形で具現化する行為なんじゃないかと思うんですよね。で、ここからが面白いところで。
僕たちはその掴み所のないイメージが自分のイメージ通りに具現化されているところに出会うと、凄まじく感動するんです。
それこそ、お金なんかいくらでも出しちゃう。
この感動が価値なんですよね。「そうそう!これこれ!」
っていう。
via: お客様が支払うお金の事について、長老と若いイケメンが語り合ったそうです。
だからアーティストとデザイナーの間には共通する要素がある。デザインは問題を解決する。それは正しい。しかしそれだけではない。それだけなら同じように問題を解決できるWindows PCとMacの分布の違いが説明できない。
クリエイターの仕事は
「受け取る人の中に眠っている静かな不満への解決を形にすること」
だと定義しよう。前掲のミュージシャンは「お客様が”そうこれこれ”と思う音楽」を作り上げる。それはお客がもちろん自分では具現化できないし、そもそもそうした欲求不満を抱いていることすら自覚していない。しかしそれが形になって自分の目の前に現れると「これなんだよ」と感動するわけだ。
これが「デザインの本質」である。なんとかメソッドとか、なんとかストームとかは全部付加的なもの。この本質を磨くための手段でありWhatではない。
このプロセスはとても微妙なものであり、ともすればHowにながれ、ともすれば「偽りの感動」にすり替えられたりする。
私の世代の人間にとって「偽りの感動」といえばまず頭に浮かぶのがオウム真理教である。あの人達は麻原の姿に「これだ。これなんだよ!」と感動したのだろう。しかしそれは偽りだった。
もっとチープな例ではこういうのがある。
居酒屋、介護士、トラックドライバーなどの業界で、「甲子園」と呼ばれるイベントが人気だ。「夢をあきらめない」「みんなを幸せに」…どれだけ言葉が心を打ったかを競い合う
via: あふれる“ポエム”?! - NHK クローズアップ現代
こうした「感動」はプロ野球の試合にでかけて、皆で同じ歌を歌い、メガホンを振り回すのと同じレベルにある。「甲子園」で前向きな言葉に感動する人はそれが「これだ。これなんだよ!」と思っているのだろう。
こうした「偽りの感動」と向き合い、それに流れることを避け「本当の感動」にまで到達するのは並大抵の努力ではできない。おそらくそのプロセスが
その自分のイメージとどれだけ向き合って、抜き取って、信じているかが、サウンドやパフォーマンスに反映されてきます。
このイメージの具現化率が高ければ高いほど、僕たちは感動します。
具現化率さえ高ければ、それこそ演奏のクオリティなんかは二の次です。だから、僕が「金返せ」なんて思っちゃうライブっつーのは、この具現化率が低いライブです。
つまり、自分と向き合っていないパフォーマンスということですね。
だからいしはらさんの言葉を真似ると、「自分のイメージをなめている人」
のライブは、ええ、客席から出て行きますよ。
via: お客様が支払うお金の事について、長老と若いイケメンが語り合ったそうです。
自分をなめるってことは、つまりお客さんをなめるってことですもんね。
ここで語られていることなのだと思う。