デザインの方法論が全て的外れな理由
2014-06-13 07:02
前にも書いたが
「デザイン思考とか、なんとかメソッドとか全部ゴミ」
このことを説明するために、私は再度以下の文章を引用する。
僕らの頭の中にあるイメージは、言葉でもなければ映像でもなければ音声でもないですよね。
それは絶えず蠢いている複雑で果てしない思考の連続で、一見膨大で捉えようのないものです。
音楽はもちろん、文学も、映画もダンスも料理も写真も、そいういうものの一部を体感できる何か別の形で具現化する行為なんじゃないかと思うんですよね。で、ここからが面白いところで。
via: お客様が支払うお金の事について、長老と若いイケメンが語り合ったそうです。
僕たちはその掴み所のないイメージが自分のイメージ通りに具現化されているところに出会うと、凄まじく感動するんです。
それこそ、お金なんかいくらでも出しちゃう。
この感動が価値なんですよね。
この言葉は本来音楽に関して述べられたものだが、「デザイン」に関しても等しく当てはまる。つまり「良いデザイン」とは
「人が潜在的に持っていはいるが、明文化できていない願望を具現化したもの」
なのだ。
そうした点において「良いデザイン」は「ヒット曲」や「売れる映画」と同じものである。
例えばある歌手の曲が売れ出すことがある。すると「専門家」がなぜその歌手の曲が売れるかを解説する。曰くコード進行がシンプル、斬新、複雑。曰く彼(または彼女)の曲を生み出す姿勢がどうとかこうとか。曰くアレンジが「時代の要請」にピッタリだとかなんとか。
私の考えでは「デザイン思考」とか他の類する方法論は、こうした専門家の言説と同じレベルにある。こう比べると、私がなぜそれらを
「ゴミ」
というかわかってもらえると思う。(無理がありますかぁ?)
島耕作が子会社のレコード会社に出向した時、ボケた出向者がこう聞いていた。
「ヒット曲を作るコツがあれば教えていただきたいですな」
それにその子会社生え抜きの人はこう応える
「そんなものがあれば苦労はしません」
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「ヒットするデザインをするコツがあれば教えていただきたいですな」
という問いに対しては、多くの人が
「それはこの◯◯メソッドを使えば。。」
とかまじめに答えて金を取っている。