デザインするのだ

2014-07-29 06:47

毎度のことであるが、自分が過去に書いたブログのポストを見返すのは楽しい。「最近おれはこんなすごいことを考えた」というものが実は数年前に言っていることの退化版なんてのはしょっちゅうである。

先日過去のポストを見直していて、こんな引用を見つけた。

NBO ははあ、だから「頭で考えてしまう」タイプのインテリは必ずしも反応しなかった。

糸井 「わあっ」は、なんというか、ボディで、全身で、その対象物に出会ったときに、思わず出てきてしまうんです。言葉とか理屈を超えて、凄い、うれしい、欲しい、と思ってしまう感覚。でも、本当に欲しいもの、本当に好きなものに出会った瞬間というのは、そういうものじゃないですか。

NBO たしかに、わあっ、なんなんだこの商品は! 俺に買われるためにできたのかっ、というモノに出会っちゃうこと、あります。

糸井 マーケティングなどが発達しすぎると、どうしてもお客さんのニーズや好き嫌いだけを徹底的に分析して、モノを作ろうとしがちです。でも、それをやりすぎると、もしかすると一番肝心な「わあっ」がどこかにいってしまったりするのかもしれません。

via: iPad、「アバター」から前川清まで――イトイ式「売れるモノ」の法則:日経ビジネスオンライン


「俺に買われるためにできたのか!」というのが、まさに「声にできないユーザの欲しいものを具現化した」というやつではなかろうか。

論理的に考えることはよいことだ。物事を磨くのには役に立つ。しかしこの場合対象にしているのは、わけがわからない人間というものだ。それが心の底で本当にほしがっているものを形にすること。それこそがデザインなのだと思う。

そのうち表のブログでちょっと書くが、この「デザイン」という言葉は広く使われすぎていて、意味がなくなってきている。

「脚本家」

「演出家」

「振り付け師」

「美術。大道具、小道具」

なんかの言葉に置き換えたらどうかと思うんだけどね。演劇とかミュージカルというのは、見ているユーザの心をゆさぶることで金をもらっている。その世界がどのような役割を求めて、どのように進化してきたのかをしるのは、今「デザイン」という言葉に押し込められている厄介な話を整理するのに役立たんかなあと思っているのだが。