COI-T「創造的生活 者シンポジウム」に半分くらい参加したよ

2014-07-14 07:15

というわけで表題のシンポジウムに参加し た。こういう

「お国が指定したプロジェクトに大学と企業が参加する」

というのは過去に何度か見てきた。情報大航海とか情報大爆発とか。

いつも思うのだがこういうプロジェクトはだいたいこんな経緯をたどる。

・大学の偉い先生が、「今はこれが必要です。このプロジェクトをやれば日本の産業にも寄与します」と言う。
・その実プロジェクトに参加した人は「それぞれ勝手な研究」をやっている。遠大な目標となんの関係があるのか首を傾げざるを得ないものばかりでてく る。
・発表会とか報告会をやって、そのたびに「こういう風に偉大な成果がでたのです。」としゃべる
・後に何も残らない。リセットして別の先生が別の構想を述べる。

シンポジウム会場にはいったところ、文科省の人の挨拶の終わりだった。そのあとも「重鎮」の挨拶があったがそれは省略。しかし時間を使うからには、そ れに見合った内容をしゃべってほしいと思うものだが。先日中学の説明会にいって痛感したのだが「全く内容のない言葉を、丁寧に並べて時間を稼ぐ」とい う才能が確かに存在し、校長と名乗るからにはそれに熟達していなければならんのだな。そんなことをちょっと思い出した。

そのあと研究リーダーとプロジェクトリーダーが何かを言う。ここについては細かく問わない。なんといっても彼らは役所からお金を取ってこなければなら ないのだ。そのために必要な言説もあるだろう。しかしこの時点で何かがひっかかっていた。

「3Dプリンタさせあれば、受動的な消費者も能動的な創作者になれる!」

という主張(私はそう聞こえたが)がひっかかるのだ。プロジェクトリーダーの言葉を聞いているうち大躍進政策の土法炉を思い出す。あの無謀な計画も 「農民が自らの手と熱意で鉄鋼を作り出す!」とかなんとか景気のいい言葉で飾られていたのだろうな。消費者は自分が何か本当に欲しいのかわからないか ら消費者なのであり、デザイナーはそれを汲み取って形にすることでお金をもらっている。この構図を全く無視した言説に私は滑稽なほど反応するらしい。

マスプロダクションもいいけれど、個人のニーズにあった少数多品種生産もいいんじゃない?それは結構。では実例を挙げて下さい。反例をあげましょう か?日本の家電メーカーは女子向け、初心者向け、大きいもの、小さいもの、キーボードがついているもの。実に多種類の「ニーズにあった」スマホを作り ました。それは世界共通一種類しかデザインがないiPhoneにすべて吹っ飛ばされました。はい、論破。いや、ここで突っ込んだら負けだ、と自分に言 い聞かせる。

さて、お待ちかねのライトニングトークである。偉い人が何をぶち上げるかは別として、私の興味は実際に担当する人たちが何をつくるか、だ。このライト ニングトークは実に興味深かった。実はこの研究を実際に行っている人たちのスタンスは3種類に分けることができる。

立場1:プロかアマチュアかを問わずクリエイターがお互いに協調し、競い合う環境を整備する基盤を作るのが重要


立場2:ユーザが自分の感性を入力すると、あーら不思議あっというまに「自分だけのすごい製品」が3Dプリンタから出力されます!


立場3:インクルーシブデザインに近い立場。すなわちユーザ自身も設計のループに参加する

20年前ならともかく「インターネットでみんなつながったたんだから、誰もがクリエイターだ」などという言説をなぜ21世紀も10年以上たった今振り 回せるのか不思議である。3Dプリンタを除けば、音楽、イラスト、動画の分野でそうした仮説は随分前に唱えられ、それがどこまでいけるか、いけないか は現実によって示されている。ニコニコ動画は数々の名作を生み出した。そしてカラオケの分野に個人が作った作品がでてくるなんてのはインターネット以 前は考えられなかったことだ。しかしそれはあくまでもそこで止まっている。いまだに初音ミクは紅白に出られない。(私はでるべきだと主張しているが)

立場2の「感性を入力すればあっというまに製品が」ついて是非期待したいのは、早期に多少反則がまざっていても構わないので

「ユーザ自身が、自分の感性を反映させた製品を作ったら、本当にすごく愛着がわきました」

というチャンピョンデータを示してほしいのだ。あの貝殻のようなケースを本当に

「売っているものより、自分がデザインしたこっちのほうがいいわ」

といって持ち歩く女性がいるのなら、是非その人の声を紹介してほしい。それが「受動的消費者が創造的生活者になる」という仮設の大元であり、The Riskiest Assumptionだ。それが実証されない限り、アルゴリズムをいじろうが論文を通そうが、すべて虚構にすぎない。私が経験で得た知識からすると

ユーザの声を聞く
ユーザに絵を描いてもらう

のはいずれもユーザ調査の古典的な誤りだ。そうした私の思い込みを覆す例を提示してほしい。いや、これは私だけの思い込みではない。立場2は先日 Google I/Oで聞いた「間 違った計画を完璧に実行する」で挙げられた「これをやってはいけない」のオンパレードである。具体的に書こう。


ユーザの言うことに耳を傾けた:声どころかユーザ自身にものを作らせようとしており、それが「よいもの」という 仮定に基づいている。

一番重要な仮説を検証しなかった:前に書いたので省略

自分が得意なことをとにかくやる:遺伝的アルゴリズム得意です!感性情報定量化得意です!3Dプリンタ得意で す!


しかしながら私がここで挙げた点は言いがかりにすぎない。この人たちは自分で事業を起こそうとしているのではなく、文科省の予算を獲得してプロジェ クトを遂行しようとしているのだ。根本が異なれば戦術が変化するのも当然。私がここで何を書こうが、このプロジェクトが継続してリソースを獲得できる か否かは全く別のロジックで決定されるんだろうな。

立場1、3に関してはそうした現実をきちんと踏まえており、確かに成果が見込めるとは思う。それはリーダーたちの大言壮語とはだいぶ距離があるが、リ ソースを獲得するための戦いには必要な戦術なのだろう。

そのあと実際の研究のデモ発表を見た。自分が書いた絵がそのまませんべいの上にプリントされるシステムを体験させてもらった。椅子に座って、さああな たが好きなものを描いてください、といわれても浮かんでくるのはこんなもの。これが普通のユーザというものだ。(自分をもって他人を律してはいかん、 という批判はお受けします)

創造的作品

ちなみにこの「遠隔地にいる孫が、じいちゃん、ばあちゃんに絵を描いたせんべいを送る」というこの構想は、うまくできていると思う。じいちゃんばあ ちゃんにとって孫が書いてくれたものは、必ず一番だからだ。

他には予想通りというか「一体この研究のどこが、全体テーマと関係あるんですか?」という研究がごろごろしていたが、それについては問わない。そう いうものなのだろう。少なくとも共創プラットフォームには何がしかの成果が期待できそうだし。

私がどう主張しようが、このプロジェクトは成功する。そして大学は「明治大学はこんな野心的なプロジェクトを成功させました!」ということになり、 文科省は「日本の競争力強化のために産学官連携のこんなすごいプロジェクトを成功させました!」となり、参加した研究者の皆様は「こんなすごい成果を だしました!予算ももらえました!」となる。みんなハッピーなわけだ。その金はつまるところ「ハッピーになっている閉じたサークル」の外から来ている のだけど、その人たちには何かお返しがあるんでしょうかね?