なぜ美しさが必要なのか
2014-08-01 07:34
前にも書いたような気がするが、気にしない。
「研究補償説」という一部で有名な説がある。人間は自分が不得意な分野を研究分野として選ぶ、というものだ。将棋の羽生名人の本を読んだことがある。感想は
「この人に語らせても無駄だ」
というものだった。それが上手にできる人はそもそもなぜ自分がそうできるのが説明できないことが多い。研究というのは客観的な解析を行うものであるからして、それでは困る。というわけで自分に欠けているとそれを補おうと一生懸命研究する訳だ。
というわけで研究ではないが私は「美しいデザイン」に興味がある。このことから私は美しさに不自由している人だと言うことが導かれるがそれは本題ではない。
なぜデザインには美しさが必要なのだろうか?
例えばこんな文章がある。
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デザインって、
『機能性』さえあれば、、、使い易ければ、
『美しさ』はいらないのか?
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そんなわけ、ありませんね。どんなに使い易かろうが、
美しくないものを人は持ちたくないものです。
美しい、、、という言い方が、
限定的であれば、、、「気に入らないもの・愛着の湧かないもの」と言い換えましょう。
via: デザインとは何か? | design door
『愛着の全く湧かないもの』を誰だって持ちたくはないはずです。
使う人に愛着を持ってもらわなくてはならない。したがって美しさが必要である、というロジックのようだ。ふーんと思うがはたしてそういうものだろうか。私が子供の頃愛用していた「ゾーリンゲンのはさみ」があった。きりにくい紐もそれだと一発で切れるからだった。今から思えば確かにそのはさみは美しかったのだが、私がそのはさみを使っていたのは美しいが故ではない。
機能を極めると美しくなる、という言説もある。これもそうかもしれないし、反例がいくつもある。
「美しいが役にたたない」
という製品だ。いつか読んだ戦闘機の本には「めちゃくちゃかっこいいけど、性能がさっぱりだった戦闘機」の図が載っていた。というわけでここはIveの言葉を聞こう。
ジョナサンアイブはこう言っています。
via: iOS7ってなぜフラットデザインにする必要があったの?
「デザインとは、何かが見せるためだけの手段ではありません。それは全て、とても多くの異なるレベルで実際に動くものです。最終的には、もちろん、デザインは私たちの経験を定義づけるものです。深遠で永続的な美しさはシンプルさと明快さと効率性の中にあると思います。そしてそれらは複雑さの中に秩序をもたらします。」
例によってわかったようなわからないような言葉である。
「深淵で永続的な美しさは、シンプルさと明快さと効率性の中にある」
というのは彼の信条であり、誰も「証明」できるものではない。しかしこの言明は問題を少しクリアにしてくれる。「美しさ」というのは非常に曖昧な言葉で、例えば佐々木希とか、海老原なんとかというモデルの静止画は確かに美しいと思う。しかし動いている姿を見ると「なんだこれ」ということになる。
そのために「深淵で永続的な美しさ」という形容詞をつけるのはよいことだ。と一歩だけ前進したような気になって今日はおしまい。