倭の国の幼稚さ
2015-04-07 07:08
我が国の「幼稚な考え方」はなんとなく感じはするのだが、いざ言語化しようと思うとうまくいかない。
原発は事故を起こさない、という幼稚なスローガンにとらわれ事故対策に他国のロボットの支援を仰ぐことになったこととか、原理原則にしがみつき何も改善されないことを望むかのような基地問題とかね。
米国人が大人びた考え方をする、と一般化するつもりはもちろんないのだが「どうにもならない現実を踏まえた上で現実に対処する」というのは大人の行動と言えないだろうか。
米国の銃の乱射事件は銃規制にこそ問題がある、そう考える人は多いはずだ。そこで筆者は訓練の最終日に参加者たちに米国は銃規制を強めるべきだと思うか、と質問した。
ところが、誰もYesとは答えなかった。
彼らは一様にこう答えた。
「銃規制が不必要だとか、検討の余地がないとか言うつもりはない。ただ銃規制は簡単に決着がつく問題ではない。だから今の社会のあり方の中で、どう身を守るかが重要なんだ」
矛盾はあるものとして対応する。最後の最後に、この国特有の価値観を垣間見た。
この訓練の様子を日本のTVが取材したとしたら、意地になって「銃規制を強めるべきです!」と叫ぶ人間を探して喋らせるだろう。そうやって「美しい理想」に固執している限り何も改善されないのだがそれでこそ叫んでいる人たちも安全である。私の考えではそれは
「先生にいってやろ」
式の幼稚な考え方だ。つまり頭のどこかに「絶対的な権力」が存在しており、いつかはその人がうまくやってくれるだろう、という何かに甘えた考え方である。多くの反原発主義者の声はそうした「形のない何かへの信仰」に支えられているように思える。
我が国でも小学校に暴漢が押し入る度時々「訓練」が行われていることが報道される。しかしそこでは
「逃げろ」もバカの一つ覚えになってはいけない。生き延びるためになんでもしろ、が正解だ。
こういう「大人の判断」を強調しているのだろうか?