恋とはどういうものかしら:前編
2015-04-16 07:29
生活に疲れた初老の男が朝っぱらからなにを言っているのだ、という真っ当な批判はぐっとこらえて、少し読んでいただきたい。
昨日渋谷のApple Storeに行った。入り口近くにMac Bookが展示してあることを知る。
どこかのコピーが女の子の気持ちをよく表していると何かで読んだ。その中にこんなのがあったと記憶している。
「この人を好きになっちゃいけない、と思った時はもう恋に落ちてる」
「無駄を極力まで排除する」ことがこれほどまでにひきしまった美しさにつながるものか。キーボードに触れてみる。確かに少し慣れに時間がかかるようだ。しかし
「十分使えるじゃないか」
と自分に言い聞かせていることに気がつく。それとともにこの文章が頭をよぎる。
クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、世界の歴史はその為に一変していたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人と云うものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞ぎまんは一たび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行われるのである。
アントニイもそう云う例に洩もれず、クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、努めてそれを見まいとしたであろう。又見ずにはいられない場合もその短所を補うべき何か他の長所を探したであろう。引用元:芥川龍之介 侏儒の言葉
キーボードのストロークが浅かろうが、外部インタフェースがUSB-C一個しかなかろうがそんなことは「曲がったクレオパトラの鼻」ほどの問題でもない。実物を見るまで気にもとめなかった「スペースグレイ」の美しさはどういうことだろう。
この馬鹿げた「恋に落ちる」という現象が人類の進化においてどのような役割を果たしたのかは誰にもわかっていない。理性は
「もう一世代待つべきだ。Mac Book Airも初代買わなくて正解だっただろう?」
と告げている。そんな思いとは関係なく「つきあうと厄介なことになるとわかっている相手」は黙ってそこに居る。愛想笑をするわけでもなく、着飾るわけでもなく。その様子はこの言葉を思い出させる。
キケロ(前51年記)
これらの巻は全て、裸体であり純粋であり、人間が身につける衣服にも似たレトリックを、完全に脱ぎ捨てたところに生まれる魅力にあふれている。引用元:ローマ人の物語IV「ユリウス・カエサル――ルビコン以前」の読みどころ: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
角度を変え、ディスプレイを開けたり閉じたりしながら見る。この製品はスペックがどうだ、拡張性がどうだ、ベンチマークはどうだという人間を念頭においては作られていない。
好きになろうとしているなら恋じゃなくて
好きになっちゃいけないと思ったら恋
すごくいい条件の人に告白されて、適齢期だし真面目に付き合おう、いい所を沢山見つけて好きになろうと努力したけど、いい所がどんなに見つかっても結局恋愛の好きにはなれなかった!
そして素を出しすぎて今更恋愛関係にはなれない男友達を気になっている自分に気付いたとき!
とかなんとか言いながら、自分が思い描いていた曲が「恋とはどういうものかしら」ではなく「私を泣かせてください」だと気付いたのはだいぶ後のことである。
しかし店の奥にはもう一つの「新商品」があるのだ。