Walk this way

2016-06-06 07:01

こういう曲の題名がなぜか日本語では「お説教」になるのはどうしてなのだろう。というか今日は珍しく「自己啓発」的な内容。

先週東本願時の前を通った。改築なったその建物は異常な大きさで「ああ、お金持ちって素敵」という感慨を禁じえない。それはそれとして、通りにいくつか標語のようなものが示されている。ふとこんな文字が目に止まる。

「”これから”は”これまで”が決める」

そうだよなあ。疲れた中年にはそうした未来しか待ってないんだよなあ。であるからして未来ある若者は毎日を大切に、とかそういうことか。と思って再度見てみると、

「”これまで”は”これから”が決める」

と(普通に考えるのとは)逆であることに気がつく。

普段こうした紋切り型の説教には反応しない私だが、これは気に入った。本家に書いたことがあるが我々は理由が大好きである。成功した人には、成功者の過去があり、失敗した人には失敗者の過去がある。

しかし

切り離してみれば、それらは大して変わりはないのだ。最後にくっつくのが「成功」か「失敗」かだけであたかも「それまで」が理由付けに使われるだけ。

Steve JobsのStanfordでの卒業式のスピーチを思い出そう。彼はこういていた。

You can’t connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards.
将来を見据えて、点(出来事)と点(出来事)を結びつけることはできません。後で振り返って見たときにしか、点と点を結びつけることはできないのです。

So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.
だから、あなたが方は、とにかく点と点が将来、結びつくことを信じなくてはなりません。

You have to trust in something――
your gut, destiny, life, karma, whatever
自分の直観、運命、人生、カルマ、たとえそれが何であれ、信じなくてはならないのです。

Because the believing the dots will connect down the road, it gives you confidence to follow your heart.
なぜなら、点と点が将来結びつき、道を切り開くと信じることは、自分の心に従う自信をあなたにもたらすからです。

Even it leads you off the well-worn path. And that will make all the difference.
たとえそのせいで、あなたが多くの人が通る道から外れるとしても、それこそが大きな違いをもたらすのです。

引用元:Connecting the dots ― スティーブ・ジョブズが信じたもの | ドイツ語通訳・翻訳 TOMOKO OKAMOTO

「後から見た時点と点を結びつけることができる」とはつまるところ「これから」を知った時にしか「これまで」の意味は確定しない、ということでもある。いや、そんな抽象的な言葉ではごまかされないぞ、という人には私が以前引用し、すっかり忘れていたこと一節を引用しよう。

「心理学者であるバルーク・フィッシュホフは、事実が起こった後では明白で予想可能に見えるが、それ以前にはまったく予測不可能であるようなできごとに対するあと知恵の説明についての研究を行った。
フィッシュホフはさまざまな状況を提示して、被験者にそこで何が起こるかを予測させた。彼らの予測が正答と一致したのは偶然程度の確率でだった。

次に、他の被験者たちを対象とし、同じ状況を今度は実際に起こった結果の記述とともに提示した。そして、その結果がどれくらいありそうなことだったかを判断させた。すると、実際に起こった結果を知っているときにはそれがもっとも起こりそうだと判断され、他のことは起こりそうもないとされた。

実際の結果がどうだったかをしらない時には、それぞれの選択肢のもっともらしさは、まったくこれと異なるように判断されていたのである。ことが起きてしまった後から振り返れば、いったい何があたりまえのことなのかを判断するのはずっと容易なのである。」

引用元:主張

なぜ私がこんなことを長々と書いているか。理由は簡単で自己正当化がしたいから。つまり疲れた初老の男(をを、現実的になった)の「これまで」がなんだったかは、後ろを見た時にしか確定しない。

DotがConnectされることを保証するものは何一つない。Dotは散らばったままで「ああ、散漫な何もなしえない人生だった」となるかもしれない。しかしあれですよ。そこは思い込みというやつで。

というわけでこれを考える時、疲れた老人(をを、もっと現実的になった)の心は少しだけ軽くなる。しかしこんなことを考えているということは、「ひたすら文句を言い続ける」だけの心のゆとりがない、ということでもある。まあのんびり行きますかね。