The Man in the Arena

2016-08-16 06:52

The Man in the Arenaという有名なスピーチがある。セオドアルーズベルトが1910年に行ったもので以下和訳を引用する。

批判はどうでもよい。つまり人がどれだけ強く躓いたか、行動力のある辣腕の人にやらせたらどこがもっとうまくできたか、粗探しはどうでもよい。名誉はすべて、実際にアリーナに立つ男にある。その顔は汗と埃、血にまみれている。勇敢に戦い、失敗し、何度も何度もあと一歩で届かないことの繰り返しだ。そんな男の手に名誉はある。なぜなら失敗と弱点のないところに努力はないからだ。ところが常に完璧を目指して現場で戦う人、偉大な熱狂を知る人、偉大な献身を知る人、価値ある志のためなら自分の身を粉にして厭わない人…結局最後に勝利の高みを極めるのは彼らなのだ。最悪、失敗に終わっても少なくとも全力で挑戦しながらの敗北である。彼らの魂が眠る場所は、勝利も敗北も知らない冷たく臆病な魂と決して同じにはならない。

引用元:心に残ることば:The Man in the Arena | maclalala:annex

なぜいきなりこんなことを言い出しかたといえば、昨日こういう文章を読んだから。

『シン・ゴジラ』の登場人物は、だれもが自分の責任を引き受けて、逃げない。その判断が正しかったのかどうか、だれにもわからない。否、おそらく間違えた判断も多々あったことだろう。

 初めから自衛隊を投入して攻撃していれば惨禍は未然に防げたかもしれない。しかし、この物語にはそういったことを無責任な立場から告発するアウトサイダーは登場しない。

 登場するのは、完璧ではなくてもなんとか事態を解決しようと試みつづけるインサイダーたちばかりである。

引用元:なぜ人がイチローになってから打席に立とうとするのか、『シン・ゴジラ』で説明するよ。:弱いなら弱いままで。:海燕のチャンネル(海燕) - ニコニコチャンネル:エンタメ

確かにそうだ。昔の怪獣映画にはなぜか「新聞記者」がでてきてあれこれやっていた。もちろんこの映画にも新聞記者がでてきてもいいのだが、鳥越某は出る余地が無いな、と思ったのも昨日のこと。

ある意味で、自分に対する批判や弱点の指摘は、反応するしないは別として受け止めておいて、環境に応じて自分を作り替えていくしか方法はないんだろうと思うのですが、やっぱり高齢になり、社会からの反応を直接受け取らなくても大御所として仕事ができてしまうポジションにくると人はこういう腐り方をしていくものなのでしょうか。

引用元:やまもといちろう 公式ブログ - 鳥越俊太郎さんの駄目さ具合から私たちが学ぶべきこと - Powered by LINE

「日本のリベラル」という不思議な集団がおり、その行動は徹底して私の嫌悪感を掻き立てるのだが、理由は彼らの主張の内容ではなくそのスタンス。つまり彼らは徹底的なアウトサイダーなのだ。責任のない立場から他人を批判するばかり。確かに「行動」はしているがそれは彼ら自身「安全であり、何も効果をもたらなさない」とどこかで自覚しているものばかりだ。国会議事堂の前でなんとかするとかね。

日本のマスメディアも同様で

それを経営者やマネジメントの責任について1mmも触れずに、メンバー間の対立であるとか、不一致であるかのように報道しているスポーツ紙とか週刊誌が、正真正銘気持ち悪い。政権批判はできてもジャニーズ批判はできないのか? ジャニーズ怖え。この流れの中で、メンバーの人格に責任を求める記事を書いてる芸能ライターとか、人格を疑うよ。

引用元:SMAP解散の報道の気持ち悪さ

彼らがなぜ「日本政府はメディアに介入している。けしらからん!」と声高に叫び、多くの国民が関心を持つであろうSMAPの命運について事務所側の大本営発表ばかりを流すのか。それは彼らが鳥越と同じくアウトサイダーだから。彼らは政府批判は絶対に安全だと承知しているからやっている。事務所批判は彼らにとって死よりも恐ろしいこと。それは何を意味するかといえば、彼らにとって「真実を明らかにする」ことより「被害を被らない」ことのほうが重要。

サンダースのような人間がリベラルと呼ばれるのであれば、日本のそれは常に「日本のリベラル」と呼称すべきだと思う。マスメディアも同様か。