上から目線で研究を説明

2017-01-25 06:57

秋には2箇所研究所のオープンハウスに行く。NTTコミュにケーションなんちゃらとATRである。両方ともとってもすばらしい研究者が揃っているところであるし、そもそもオープンハウスだから近所のおばちゃんから高校生とか中学生まで来ている。

「とっても賢い人」たちが「そんなの」を相手に延々説明を繰り返すのだから、私のようにいかれた格好をした初老の男がでてきたときに

「あんたにはわかりっこないけど、まあ説明してあげますよ」

という気持ちになるのは当然だ。多くの場合顔にそう書いてある。

時々あるのだが、私が説明に対して「この場合はどうなんですか」と相手の意表をつく質問をすると、相手はちょっと驚いた顔をしながら私の名札を覗き込む。もちろん所詮私の質問だからたいしたものではない。それだけ相手がこちらを見くびっていたということなのだと思う。かくのごとく相手にみくびられるというのは楽しいことでもある。相手を少しつまづかせただけで相手に与える精神的ダメージが大きい。

ピーター・ドラッカーは「知識ある人の責任」について、こう述べている。

知識ある者は、常に理解されるように努力する責任がある。素人は専門家を理解するために努力すべきであるとしたり、専門家はごく少数の専門家仲間と話ができれば十分であるなどとするのは、野卑な傲慢である。

大学や研究所の内部においてさえ、残念ながら今日珍しくなくなってきているそのような風潮は、彼ら専門家自信を無益な存在とし、彼らの知識を学識から卑しむべき衒学に貶めるものである。*1

引用元:知識レベルに格差がありすぎると「普通に話しているだけ」なのに相手にとっては「バカにされている」ように感じる | Books&Apps

最近の繰り返しになるが、釈尊の教えはどうだったとかあれこれ考えている人も「上から目線」とみられたんではなかろうかな。でもってとにかく「念仏唱えろ」「南妙法蓮華経と言え」というところに落ち着いたのだと。小保方を未だに信奉する人間には何を言っても無駄、というのが「頭のいい人」の実感なのだろうけど、そこで止まってしまっては進歩がない。

未だに繰り返される文明社会での蛮行を思うとき、(最近の米国の大統領選挙もその一つだ)気が滅入るのは私だけではないと思う。念仏よりももう少しまともな方法はないものかな。