上司は敵か仲間か
2017-02-13 06:53
社内の人間にかして返してもらえていないG.M.ワインバーグの本にこんな言葉があったと思う。
理解のために調査しよう。批判のために調査するのはやめよう。
つまり「犯人探し」をするのは時として無駄だと言っているのだ。誰それが約束を守らなかったのがスケジュール遅延の原因。ではどうするか?
「あと問題の犯人探しをやめます。時間の無駄。解決方法だけでいい。」
その発言にリーダーが「問題の所在をハッキリさせるのは重要だ」と異議を唱えたが、「俺は発売までに解決できるならそれは問題じゃないという認識。解決できなかった時は俺が責任取るから。それでいいだろ?」と言った。
「批判は何も生まない」という言葉があるのが、私は批判が大好きなのでこれはすべての場合には正しくない、と思っている。間違っているものは間違っていると言うべきだ。それを批判と呼ぶのは勝手だが。
しかしそれは「犯人」ではない。間違っているのは個々の判断だったり、行動だったりするわけで「犯人」が常に悪いことをしているわけではない。(多くの場合は)
仮に犯人が常に悪いことをしているのならば、プロジェクトを完成させるためになんらかの方法を考えるべきだが、その「犯人」が犯罪をしているのでない限り何か破壊的ではない方法があるはずだ。
話がそれた。
昨今よく聞く「詰める」という文化であるが、これは多くの場合無駄である。しかしよく行われていることでもあるらしい。私によくわからないのが、詰めることがプロジェクト完成にどう役立つのかよくわからない、ということ。それで相手の生産性が上がるとかなら意味があると思うのだが。
となると「問題の所在をハッキリさせるのは重要だ」という言葉はどこからでてくるんだろうね。ネットが普及したことで明らかになったのは、世の中に「問題の解決に尽力する」よりも「処刑人になりたい」人がたくさんいるということ。誰かを処刑すると問題は解決されることも確かにあるだろう。しかし多くの場合はそうではない。もっとも大きい問題は、上司が部下を処刑し始めると、上司は部下になって「敵」になってしまうことだ。そうなると、お互いがお互いのに備えた軍備を拡張しだす。でもって一歩離れてみれば、その軍備というのは全くの無駄金。
と書いていて思ったのだが、この世界の状況もそれに近いのかもしれんなあ。