聖書を読もう
2017-03-08 06:59
今朝こんなニュースに目が止まった。
ローマカトリック教会のフランシスコ教皇が信者に対し、スマートフォンをチェックするのと同じくらいの頻度で聖書の言葉にも目を向けるよう呼びかけた。
いやぁ。さすがに2000年も続く宗教団体のトップは言うことが違うなあ、と感心した。
彼らは確信しているのだと思う。こう言ったところで絶対に誰も聖書を読まない、と。しかしこう発言することで
「聖書にはなにやらありがたいことが書いてあるに違いない」
という一般大衆の思い込みは増幅される。最近この本を読んでいるのだが
表紙と題名はちょっとなんだが、内容は
「真面目に偏見をすてて聖書を読んでみました」
というものである。実際聖書というのはこうした解説本の助けなしには読めないようにわざと作ってあると思う。
でもってこの本の助けを借りて、私が学んだ「聖書の教え」を一つ紹介しよう。
イスラエル人はヤハウェから「カナンに住んでいる人たちを聖絶しろ」と言われる。でもってその言葉の通り皆殺しにする。
なぜこんなことが正当化されるかと言えば
ノアの箱船のノアが酔っ払って裸で寝ていた。その後何が起こったか。
22:創世記/ 09章 22節-25節
カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。
ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、
こう言った。「カナンは呪われよ/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」
すいません。わけがわかりません。ノアの息子はハムとセムとヤフェト。ハムは「父さん裸でねてるぞ」と兄弟に告げる。言われた兄弟は裸をみないようにしてノアに着物をかける。酔いがさめて目が覚めたノアがハムに激怒するならともかく、ハムの息子のカナンに呪いをかける。かくしてカナンの子孫はイスラエル人に虐殺されてもいいことになったのだ。。
控えめに言っても無茶苦茶である。こんな宗教を真面目に信じている人間がたくさんいる国なら、そりゃ原爆も都市への無差別爆撃もやり放題だわな、と納得がいく。(冗談です)
しかしローマ教皇は確信しているのだ。誰も聖書を読まない、と。
意味】 鰯の頭も信心からとは、イワシの頭のようなつまらないものでも、信仰すれば非常に尊いものに見えることから、信仰心の不思議さをたとえたことわざ。主に、新興宗教などに対し、皮肉の意味で使われることが多い。
聖書を読むたびこの言葉が頭をよぎる「イワシの頭も信心から」つまり信仰を増幅する仕組みさせ整えてしまえば、中心にあるものはなんでもいいのだ。イワシの頭でも聖書でも麻原ショウコウでも。
最近考えているのはこういうこと。なぜ人は考えることを捨て、信じることを選ぶのか。仏教も結局大衆化の家庭で「ナムアミダブツ」になってしまった。どうしてこういうことが起こるのか。これを避ける方法はないのか。