誰のためのデザイン
2017-03-23 18:07
有名な書籍と題名がかぶっているような気がするが、気のせいです。
というわけで今書いている「プレゼンテーション失敗の本質」の原稿から適当に着服する。ことのおこりは
「なぜ誰も読み取れない量の情報を詰め込んだスライドが巷に溢れているのか」
という疑問。いや、あれも書いておかないと、これも書いておかないと、と詰め込みたくなる気持ちはわかる。しかし自分が聴衆であるときのことを思い出せば
「そんなに詰め込まれても誰も読まない」
ことがわかりそうなものなのに。この「受取手の立場を無視し、送り手の自己満足で情報を詰め込む」ことはプレゼンテーションのスライドに限った話ではない。
引用元:洋画のポスター、日本版はデザイン変えすぎ!? 映画配給会社の言い分は……
日本語版はとにかく文字が多い。映画の様々な場面も切り取りとにかく詰め込む。なぜこんなことをするのか?作る側の言い分はこうである。
「あと、お客さんはこれを見て『この映画はお金を払って観るに値するか』を判断するので、『受賞歴』『スターが出てる』『感動できそう』『有名人からのコメント』などの安心できる要素も必要だと思います。そうすると、どうしても文字は多くなってしまいますね」
引用元:洋画のポスター、日本版はデザイン変えすぎ!? 映画配給会社の言い分は…… - イーアイデムの地元メディア「ジモコロ」
ここでも「受取手を無視した作り手の勝手な安心感」がでてくる。この議論が間違っているのは、これがなりたつためには
「ポスターを見る人は、じっくり時間をとってポスターを読んでくれる」
という前提が暗黙のうちに想定されている。しかしそれは間違っている。
つまり
「安心できる要素」の主語は誰なのか?ポスターを見る人間か、それとも作る人間か?このインタビューに答えた人間は意識していないだろうが、彼らは間違いなく「作り手の安心」を優先している。もう一箇所引用しよう。
「ありますね。ちゃんと受け止めないとなって思います。でも特に今は、娯楽の多様化、ネットの普及、ライフスタイルの変化等の影響で映画館へ足を運ぶ人が減ってますし、なおさら制作物をメジャー化させないといけないので……」
引用元:洋画のポスター、日本版はデザイン変えすぎ!? 映画配給会社の言い分は…… - イーアイデムの地元メディア「ジモコロ」
ここで「メジャー化」という言葉がでてくる。いろいろな人にアピ−ルできるように、という意図なのだろう。問題はそれが
「実際にいろいろな人が見て”これは面白そうだ”と思う」
ではなく
「作り手が”色々な人に向けた情報”をまんべんなく盛り込みました」
になっていること。個々の要素をみれば、ちゃんと理屈は通っているのだろうが、全体として見るとゴミである。つまりここでも「受取手を無視した作り手の自己満足」が見て取れる。
この根底にあるのは
とにかく「今と違ったことを避ける」メンタリティであり、作り手側の内部調和を一番にする姿勢。そりゃ今までと同じようにいろいろ書いておいた方が社内で認可は得やすいからねえ。
つまるところ
これは「勇気の欠如」と「部分最適はできるが、全体最適を行えない日本病」の問題である。とにかく売れるかどうか不安だ。だから「必要そうなもの」を全部詰め込んでおこう。赤外線通信、ワンセグ対応、メモリーカード増設にバッテリー交換。そうやって作られた国産ケータイが「なーんにもついていない」iPhoneに一掃された事実を見ても、この「作り手が安心」メンタリティは死なない。だって不安だもん。といつのまにか話は「ユーザインタフェース開発失敗の本質」とつながっている、、というところでこの文章全体が壮大なステマの試みだったことが露見するのであった。