日本に足りないもの
2017-07-24 07:08
先日こんな文章を見つけた。
iPhone を見て、日本の携帯電話メーカーのエンジニアたちは口を揃えたように、「うちだってあんなデバイスは簡単に作れる」「うちも前から同じようなデバイスを計画していた」と言いましたが、結局は Apple に大きく市場を奪われてしまいました。
そして、その一番の原因は、現場の技術力でも発想力でもなく、トップのビジョンにあった事実は未だにちゃんと理解されていないと思います。Tesla の Model S/X が自動車業にとっての iPhone であると私が感じる一番の理由は、高らかなビジョンを掲げてエンジニアたちを引っ張り、消費者たちを虜にする Elon Musk にあるのです。
この人の言うことには(誰に対しても同じだが)賛同できる部分と鼻で笑う部分がある。これは前者。文科省は「分野横断」とか「協創」とかくだらないキーワードにご執心のようだが、日本が冴えない原因はただ一つ。リーダーがいないことによる。
ソニーの盛田氏とか、松下幸之助とか、稲盛氏とかそういう名前が聞こえなくなって久しい。海外のニュースフィードをみていてでてくる名前は孫氏だけ。
まずはこの現状を見つめようではないか。文科省が作った小さなゴールをうまくゲットしていく人間をいくら集めたところで何もできんのだよ。
次の問題は、なぜかつては強力なリーダーを生み出すことができたこの国に、それができなくなったのか、と言う点。今ぼんやり考えているのは「型の呪い」と言うやつである。
日本人は様式美が大好きだ。例えばデンソーでは「デンソー流」という言葉がよく使われる。それが何かを誰も説明できない。自分たちの奇妙な行動様式に合理性を与えること以外の意味を持たない言葉だ。
しかし
一旦「デンソー流」という「型」ができると、それが唯一絶対の基準となる。そしてそれへのハマり具合をもって人の評価がなされ、そのうち
型にはまることに全精力を費やす
ことになる。そして会社と国が衰退する。太平洋戦争末期に行われた理不尽な行為の多くはそれで説明がつく。とにかく死ぬことが「型」になる。だから民間人に自決を強要したり、戦艦大和を出撃させたりする。そもそも戦争の目的はなんなのか、という本質論はどこかへ消え「死ぬ」という型にはまることが重要になる。
とかなんとか
分析してもなんともならんのだよね。本でも書けば金になるかもしれんが、これだけのネタで数を出せるのは有名な人だけだしなあ。