アメリカ的潔癖さと問題と
2017-07-06 07:33
その昔サッカー場で暴れまわるフーリガンなる人の映像を見ていた。「英国といえば紳士の国ではないか。なぜこんなことが起こるのか」というと友達は「階級の差が激しいから」といった。
もちろんその時の私(20台後半だったと思う)は物事を単純に捉えすぎていた。「●◯の国」などという表現は全て間違っている。それはスローガンからもしれないが実態とは異なる。
さて
とかなんとか自分が悟りを開いたようなことを言っているが、現実はそれより複雑である。そもそもセクハラという言葉が英語ベースであるように日本ではそうした言葉すら生まれなかった。宴会の席で女性が不快ないやがらせを受けるのは「当然」と見なされていたのだ。
そこにアメリカから「セクハラ」という概念が輸入された。でもって一時はなんでもセクハラだった時期もあるように思う。それでなくても「アメリカは訴訟の国」だから、そんなことすればすぐ訴えられるに違い無い、と頭のどこかで思い込んでいた。そこにUberのスキャンダルが報じられ、さらにはこんな報道も眼にする。
先週、マクルーアは500を襲った嵐の中心だった。 ニューヨークタイムズの記事でファウンダーのSarah Kunstに対してマクルーアが不適切な性的ほのめかしを行ったことが報じられた。マクルーアは500の運営中、女性に対して不適切な行動を取ったことが複数回あることを公開状で認め、謝罪した。昨夜、500 Startupsはオーストラリアの投資パートナー、LauchVicに対し、マクルーアのセクハラの苦情に対する社内調査を隠していたことについて謝罪した。
このスキンヘッドの男には会ったことがある。500 startupに見学に行った時"Hi"といって座っていた。
私が未だに理解できないのが、アメリカ的「なんでも訴訟」とこうしたセクハラの蔓延がどうして両立しうるのか、ということ。そもそもUberがそんなひどいところだったら働くべきではないし、Uberで職を得られるひとだったら他の会社でも働けるはず(と書いていたら、知り合いがUberで働き始めた)ではなぜこうした問題が放置されるのか。GMに駐在していたとき、長く駐在している人から「ちょっとまて、そんなことを言ったらセクハラで訴えられるぞ」と注意されたこともあったように思うのだが。その発言の内容は忘れたが、日本的感覚では問題ないものだったことは確かだ。
アメリカでは会議で自分の意見を言わないと評価されない、と読んだこともあるし、聞いたこともある。
その一方、「リーマンブラザーズ・コンフィデンシャル」にはこんな記述がでてくる。暑い中皆がCEOの家で会議をしている。奥さんが「何か飲みますか?」と聞くとCEOが「いや、彼らは何も飲みたく無い」と答える。奥さんは冷水を出すが、誰もそれに手をつけない。こうした「親分にひたすら追従する」態度と先ほどの「自分の意見を言え」をどう両立させるのかもわからない。
結局どこの国でも同じことだが「ボスのご機嫌を損ねない範囲の中で、独自の意見を言え」ということなのかもしれない。その場に存在しているが、眼には見えない「ここから外は危険地帯」を見極めるのはどこでもとても難しい。