観察するのだ

2019-02-18 06:54

聖書というのは学べば学ぶほど面白い。支離滅裂で嫉妬と虐殺とわけのわからない記述の塊なのだが、キリスト教の人はそこに意味を見出そうとし、実際に意味を見出してしまいそれだけではあきたらず人にまで説教を始める。

聖絶という言葉がある。要するにヤハウェの意に染まない人間は皆殺しにするのであり、聖書には何度も出て来る。ではこれをどう現代風に擁護すればいいのか。

申命記7章1、2節で、イスラエルがカナンの地の七つの異邦の民を聖絶するとあるのは、イスラエルとカナンの民の民族同士の争いについて語っているのではなく、罪の目盛を満たしてしまったカナンの民を、神が御自身の聖さのゆえに滅ぼすことを示しているものです。

引用元:これって何が論点?! 第16回 「聖絶」と戦争は違うの? | 月刊いのちのことば

ふーん。でもって結局イスラエルの人間がカナンの人間をヤハウェの言葉を聴いたと称して皆殺しにするんだよねえ。カナンの人間というだけで子供も赤ん坊も皆殺し。でもってそれは神の尊さの故正当化される、と。

きっとキリスト教の人もどっかで「聖書ってなんとかならないですかねえ」と考えたに違いない。しかしその時はもう遅い。権威が確立したものを動かすわけにはいかない。かくして聖書を掲げるしかなくなった。

キリスト教の人の「言い訳術」にはおそらく見習うべき点があると思う。私のような浅学の人間には尻尾を掴ませないだけの言い訳術を数百年にわたって発達させてきたはずなのだ。引退したらそういう本でも書くかな。