仏教と呼ばれているもの

2013-12-19 20:07

この本を読み返していた。

高校の授業でゴータマの悟りについて学んだ時から今の仏教について「一体なんなんだ」と疑問に思い続けていた。そもそも彼は地獄についても極楽についても語っていないではないか。なのになぜ私は「神様仏様」と祈るのか。

一人の人間の瞑想法と悟りが、いつしか超人的な神と結びつき、あげくのはてには「とにかく念仏だ」「とにかく何妙法蓮華だ」となるのはどうしてなのか。もっといえばなぜ戒名に金を払わなければならないのか。何を言っているか一言も理解できない読み上げになぜ大金を払わなければならないのか。全部「仏教」という名前でひとくくりにされているが、その実態はあれが付け加えられ、これが付け加えられの複合体である。

そういった歴史を無視して「とにかく仏教で葬儀だ」と子供の頃から教えられていると

弊害というと言葉は悪いですが、直葬で困ったのは四十九日法要だったと田中さんは振り返ります。「何となく位牌はあったほうがいい」「やっぱり一区切りとして法要はしたほうがいいと思う」という意見は母親も含めて家族全員一致。特別に信心深いわけではないのですが、「法要、お盆、お彼岸などを通じて、亡き人へ思いを馳せるという行為はきちんと子や孫に伝えていきたい」という思いがどこかにあったのでしょう。火葬しておしまい、という形にはしたくなかったようです。

引用元:「親の葬式をしなかった」59歳男に一生残る後悔 | 家庭 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

かくて故人が葬儀、墓なしと遺言しても「なんとなく位牌は」とか「なんとなく法要は」という強迫観念が植え付けられることになる。

そもそも位牌とはなんなのか。法要とは何を意味するのかについて坊主ではなく、歴史の観点から教育するといいのではないかと思うのだけどね。今の仏教は「呪い」と一体化している。位牌がないとなんとなく落ち着かない。法要しないとなんとなく悪いことが起こるような気がする。

個人を偲び、残された者たちが定期的に集まるのはいいことだと思う。しかしそこになぜ仏教が絡んでくるのか。私が死んだ時には、宗教関係にビタ一文払ってはならん、と遺言するつもりだ。それは金銭的な損害を防ぐためではない。思考や学びを放棄していることを意味しているから。

それを無視されたところで

「化けて出る」

ことができないのはなんともつらいところだ。