カポーの歌

2013-12-19 20:07

今「夜と霧」という本を読んでいる。

強制収容所に入れられてしまった精神科医の記録。明日生きているか死んでいるかは、ほんの偶然で別れる。生き延びるための努力をすることができるが、その努力が「成果」につながるかどうかはわからない。何度か言及される「テヘランの死神」-ある男が死神に出くわして驚きテヘランまで逃亡する。死神は「驚いたのはこっちだ。奴には今夜テヘランで会うはずあったのに」と告げる-この状況でどう生きればいいのか。

それについてはいつか書くこともあるだろう。今日書きたいのはこの本にでてくる「カポー」である。同じ強制収容所に入れられた身でありながら、病的なサディストは監視役に回ることができる。そして思う存分自分のサディスティックな欲求を同胞に対してふるうことができるのだ。その監視役をカポーと言うらしい。なぜこんなことを書いているかといえば

「面談者の部長から、『今の部署に残りたいというのであれば、どのように貢献できるのか、示せ』と言われた。面談のたびに貢献策を提案したが、部長からは毎回駄目出しを食らった。結局、何を提案しても無駄な抵抗と感じた」(54歳、NEC経理)

「6回めの面談時に、『面談をやめてください』と何回もお願いしたが、部長は『答え(早期退職の選択)が出ない限り終わらないのよ~』と冷たく言い放った。いつまで面談が続くのかと、絶望感に襲われた」(54歳、NEC技術)

引用元:早期退職しない限り面接が続き…「45歳以上クビ切り」横行中(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース

日本では社員を解雇することは簡単ではない。それゆえこのようなことが行われる。ほとんどの人はこの記事を読めば「社員かわいそう、会社けしからん」と思うだろう。私はこの「部長」のメンタリティについて考える。彼らはカポーだ。

部下にクビを告げることはつらいし、危険だと米国の管理職の手記を読んだことがある。これはそれよりはるかに陰湿。同胞に対し「辞めます」という答えが出るまで「貢献策を示せ」と言い続け、何を言われても「それはだめだ」と言う。

私は一生部長などと言う肩書きを持たずにサラリーマン人生を終えるが、こんな仕事をさせられるのなら「NECの部長」などという肩書きには近寄りたくもない。

カポーはどんな気持ちでこの仕事を行なっているのだろう。会社の命令ならば、こうしたことを平然とこなせるメンタリティでなければNECの部長にはなれないということだろうか。あるいは少しは人間らしい気持ちが残っており葛藤しながらこうした仕事を続けているのだろうか。