ケースバイケース

2019-07-03 08:38

おそらく多くの場合に当てはまる言葉として

「一般化は常に間違っている」

というものがある。何かと言えばこの言葉。

私は両親とも見送って、父の時は普通のお葬式(葬祭場借りてやるやつ)で、母の時は本人の意向で身内だけで家族葬みたいにしたんだけどね。後者に憧れる人が多いみたいだから言っとくけど、前者の方が近い身内には本当に楽だから。

引用元:ヒヨコ(8/18「発達障害 基本のき」募集中)さんのツイート

この方は自分の経験を話されており、それは真実なのだと思う。しかしながら「一般的に普通の葬式の方が楽だ」と言われれば

「それは場合による」

といいたくなる。

葬儀を行うと挨拶を一度に済ますことができる。これは確かだろう。しかし葬儀の問題は「葬儀を行われると行かなければならない人がたくさん出る」ことでもある。この指摘はあまりないように思う。

葬儀があろうがなかろうが是非お別れを言いたい人は確かにいるだろう。しかし私の推定では「葬儀があるから気が進まないけど行かなければならない人」はその何倍も存在する。その昔勤めている会社の上司の父親がなくなった。私はその手伝いに行かされた。もっとも今はそういうことは少ないかもしれないが。労働組合の委員をしているとき、受け持ちの職場で葬式があるときは、かならず委員が行かされた。同じく職場の上司として来ている人が言った言葉はいまだに覚えている

「葬式に来ても悲しくもなんともないね」

この言葉を非難したい人は多かろう。しかし真実であることは間違いない。私もそうだった。

うちの父が亡くなった時は、葬儀の類は一切行わなかった。親族だけで日を改めて偲ぶ会をやった。これはとても楽しかった。ぽつぽつ来る人は母が対応してくれた。我が家に関して言えばこのシステムはとてもうまく機能したと思う。

もちろんこれは一つのケースであり、普遍的な真実ではないしそう主張するつもりもない。私が子供に遺言を書くとすれば

・宗教関係には一文も払うな

・いい方法をみなで考えろ。私は君たちが創造力を発揮してくれることを期待しているが、その時父さんは死んじゃっているからまあ好きにやんな

というところだろうか。