To Be Gap
2020-07-22 07:42
というわけで、通俗的デザイン思考のワークショップを何度か経験し(受講する側も、ファシリテーションする側も)通俗的デザイン思考の欠陥が見えてきた。
そもそも現状のユーザをいくら眺めても、どんなフレームワークを使ってその結果を整理しようとも「未来の、変化するユーザ」については何もわからない。人間はびっくるするほど変わるのだ。今電車に乗ればほとんどの人がスマホを眺めている。こんな光景を二十年前に想像できた人がいるだろうか?(私は予想していたぞ!という人がたくさんいることは知っている。しかし私はそうした声は無視する)
しかし今日書きたいのはそのことではない。
仮に現在のユーザにフォーカスした製品、サービスを考えることにしたとしよう。ここでの問題は
「現状をいくら分析しても、そこから”素晴らしいアイディア”はでてこない」
という点である。つまりAs is(現状)の分析は、確かに役に立つかもしれないが、それは魅力的、革新的なTo Be(こうなりたい、という姿)の案出には全く不十分なのである。というかほとんど別物である。
だから私は今日の表題に掲げた言葉を勝手に作った。As isとTo Beの間にはとんでもないGapがある。これをTo Be Gapと名付ける。(英語的に見てどうか知らない)
通俗的デザイン思考は、この問題から目を背ける仕組みに満ちている。つまり時間を短く区切り「質より量」とかお決まりの文句を並べてとにかく付箋にアイディアをたくさんかかせる。それを内容をろくに理解しないファシリテーターが適当にグルーピングする。その挙句投票を行い、それぞれのアイディアが誰のものかわからなくする。一番票を集めたアイディアを綺麗な絵にまとめる。ほら、みなさん、デザイン思考をやってこんなすごいアイディアが出ました!
こうして出たアイディアは、「もうこの十年に20回以上は聞いた」ものだったり「小学校で児童が提案したのなら先生に喜ばれるかもね」といったものだったりする。なのに、とにかく皆で20分くらい考え、そして最後が綺麗な絵になっていると、「をを、いいじゃないか」という満足感だけは与えることができる。ワークショップをやること自体から課金しているとすればそれで十分なのだ。
こうした「通俗的デザイン思考」の最大の欠点は「考える」ということを軽視していることにある。普段なーんの疑問も持たずルーチンワークをこなしている人が「あなたもクリエイティブになれます!」というお話を1時間きき、20分ブレーンストーミングをしたとしよう。でてくるのは何か?「普段のInput,考える訓練0の人が20分考えた結果」でしかない。
「To Beを考える」ためには、普段からいろいろなものに触れ、その意味を考え、頭の中で何度も作り直し、自分で批判し、あるいは同じ志を持つ仲間と批判しあい、腹をたて、でもどうして腹が立つのかを自分で考える。そして訓練が経て初めて可能になることだ。貴様の意見になんの価値もない?ではこの人の意見はどうだろう。
「うちが教えているのは、決して絵を描くスキルだけじゃないんだ。考える力が大事なんだ。例えば10年後になんらかの理由でゲームもアニメーションもなくなって、エンターテイメントってものがナイトクラブだけになったとしよう。そうなったとしても、このクラブはこういう音楽だからこういう照明を当ててこうやって見せればお客さんは喜んでくれるんじゃないかって、考えられる人にはちゃんと仕事はあるんだ。考えるってのはいろんな仕事で共通してるんだよ。」
ちょっと例えはぶっ飛んでますが、、、笑
でも言っていることはわかります。「考える力」というのはどの仕事でも根底にあるもので、業界の変化にも振り回されないものだってことだと思います。
通俗的デザイン思考ではこの「考える」というところを「質より量、批判禁止、etc」という何十年も前から言われている「ブレーンストーミングの原則」を唱えるだけで済ませてしまう。
一番我慢ならないのはこの点。