面白い文章を書くということ
2026-01-31 09:44
田中泰延という人がいる。マッドマックス 怒りのデスロードのレビューで知った。こんなに面白い映画評をかけるものかと驚いた。
こんな文章を読まされては「この人から文章の書き方を習いたい!」と思うのも当然。私は本を買った。そして思った「この人は自分がなぜ面白い文章を書けるのかわかっていない」才人とは得てしてそういうものである。いや、私には才能がない。こんなことを心がけているだけですよ、と言う。しかしその言葉を真に受けてはいけない。才ある人は、私のような凡人にはできぬことを自然にやっている。
さて
その田中氏が主催した「お金を払ってでも読みたいことを、自分で書けばいいと思える書く力の教室」の最終課題が公開された。田中氏の言葉を引用すれば
私が講師としてお伝えしたのは、
「自分の名前と顔を出して書こう」
「他の人が書いていることはもう書かなくていい」
「自分の感動の中心はなんだったのかを書こう」
「調べて書こう」
「なにか別のものを引き合いに出して書こう」
「それ、自分が読みたい文章ですか?」
「それ、お金を払ってでも読みたくなる文章ですか?」
「それ、田中泰延も読みたくなりそうですか?」
せんじつめると、これだけです。
テクニック的なことは、あまり教えた記憶がありません。
とのこと。そして最終課題の題材は映画「国宝」のレビューである。これはありがたい。「国宝」は私にとって謎なのだ。歌舞伎のいくつかのシーンはよかった。それ以外には何もない映画としか思えない。なのになぜかたくさんの人が見に行き、褒め称える。一体あの支離滅裂な脚本でどうやって感動できるのか。ぜひそれが知りたいと思っていたのだ。
というわけで受講生が書いた国宝レビューを読んだのだが。
面白い文章を書くことは、これほど難しいことか。受講生はおそらく真剣に課題に取り組んだのだと思う。しかし田中氏が明示しなかったことを理解し、実行するのはこうも難しいのか。
というわけでそう考えた理由をこれから書いていこうと思う。なぜ書くのか?私自身今本を書こうとしている。しかし「どうすれば読んでもらえるか」がわからなくなっている。それを考えるための何かにしたい。
さて
公開されている国宝レビューは8件。その中で私が義務感からではなく読むことができたのは1件だけだった。
他の7件のレビューを読もうとする。段落の一行読んでもう次の段落に行く。ずっとスクロールして、あれこれでおしまいか。これの連続。どのレビューも努力して書いたことはわかるから、読まなくては、と思うのだが目が拒否する。
それはなぜなのか。
田中氏が教えた項目を眺めてみる。
全ての受講者は以下の項目を忠実に守って文章を書いた。
「自分の名前と顔を出して書こう」
「調べて書こう」
「なにか別のものを引き合いに出して書こう」
そして最後の3っつ、「それ...ですか?」は多分各自ともにベストを尽くしたのだろう。
となると私にとって差異になったのは以下の項目ということになる。
「他の人が書いていることはもう書かなくていい」
「自分の感動の中心はなんだったのかを書こう」
この二つの項目は実は同じことを言っているのだが、まず個別に見て行く。「他の人が書いていることはもう書かなくていい」について。あるレビューの冒頭はこんな感じ。
私の目は最初の一行で滑り出す。こんなのは誰もがかけることであり、「他の人が書いていること」そのもの。読む側からした時間の無駄。おそらく真面目な人は「前提は丁寧に書かなければ」と思うのだろう。対して私が読むことができたレビューの冒頭はこんな感じ。
これで必要十分なのだ。ではなぜ長々と「そんな話はもう知っているよ」という文字をつらねたくなるのか?
それはもう一つの項目と関係してくる。「自分の感動の中心はなんだったのかを書こう」。なるほど。しかしもし「自分の感動の中心」がないとしたらどうなるか?とにかく文字を連ねなければならぬ。というわけで歌舞伎について説明し、原作小説について説明し、と延々と「他の人が書いていること」が続く。そんなのは生成AIに任せておけばいいのに。
これがおそらく田中氏が無意識のうちに実行しており、それ故受講生に伝えられていない点だ。そもそも文章を書くとはどういうことか?
井上ひさしの文書読本によれば
いい文章とは何か、さんざんん考えましたら、結局は自分にしかかけないことを、どんな人でも読めるように書く。これに尽きるんですね。
だからこそ、書いたものが面白いというのは、その人にしか起こっていない、その人しか考えないこと、その人しか思いつかないことが、とても読みやすい文章で書いてある。だから、それがみんなの心を動かすわけです。
引用元:井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室 p32
ことであり、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロによれば
なぜ小説を書くのか。他のノンフィクションとかではなく。私が小説を書くときには、感情を伝えようとしている。知的な情報を伝えようとしているのではない。もしそれが伝わったらそれはそれでいいことだが。
私がこれは重要だと思った事柄に関する感情を伝える。そのために小説を書く。これは私が尊敬する小説家、あるいは音楽など他の芸術の形態でも同様だ。
経済的に生産的であるだけは不十分だ。私が小説を書くときにはこう考えている。私にはこう感じた。それをあなたに提示している。あなたはどう感じるだろうか。私が感じたことの一端でも受け取ってもらえるだろうか。
引用元:カズオ・イシグロ 文学白熱教室より講演内容を筆者が翻訳
つまり
そもそも文章は、「私はこう考えたんだ」というユニークな視点-これは個人の意見を深掘りすれば必ずユニークなものになる-を人に伝えるために書く。ところが私が読むことができなかった7篇のレビューにはそれがない。それ故たんなる「がんばって調べました。他の情報との関連も考えてみました」の羅列になっている。
よし。これで自分の文章を書く心構えができた...かな?