日付:1998/1/10
幸か不幸か話は結構きれめなく続いた。とはいってもこちらは「ここで話がとぎれたらあとの時間が気まずい」という恐怖があるものだから、少しでもせりふがとぎれた場合に必死で話題を探しているというのが本当のところなのである。そのうちお互いのプロフィールが知れてきて、相手は大阪で務めている24才のOLだということがわかった。しかも話がはずむし、話の内容もあう。ここでとりあえず「彼氏は?」と聞いてみるわけだ。彼女の答えは「うーん」でであった。
要するに友達「のようなもの」がいるという。まあかわいいし、性格も良いから、それくらいいても当然か。。。。昔の大坪くんだったらここでくじけてしまったかも知れない。しかし30をすぎると人間悟りを得ることだってある。私の最新の悟りは「彼氏がいようが、結婚していようが、とりあえずいっしょに話てくれている間はかまわない」というもんである。 従って、ここでもこけずに元気にお話をしていたのである。
さて2時間は早くもすぎようとしていた。車内に「Ladies, and gentlemen. We are going to make a brief stop at Nagoya 」という妙な英語 のアナウンスがひびく時間となった。ここまでうまく話をつなぎながらも、最後に妙なためらいを見せて、話を没にしたことが過去に一回あった。最後に今後の話をしないほうがよかったと思うことはたえてない。実のところ2時間も仲良くお話ができてそれ以降何もないということはありえないはずだと信じてしまおう。ここで彼女のセリフ「もう会うこともないんでしょうかね」ここで何もしないのは過去の大坪君と馬鹿だ。私はすかさず自分の名刺の裏に自分の電話番号を書いて「暇があったらここに電話してね」と言って渡した。 おそらくかかってこないことを予測しながら。でも何もしないで別れてあとで「何かすればうまくいったかもしれない」と思ってもんもんとするよりは100倍もましである。
それからさっそうと(当然彼女の視線を意識しながらであるが。)新幹線を下りた。そして階段に向かう途中で振りかえって彼女の方を見て「にっこり」と笑って手をふった。こういうしぐさがわざとらしいというのであれば私はありとあらゆる非難に対して開きなおってやろうじゃないか。「めぞん一刻」の三鷹のせりふじゃないけど「男と女の中は別れ際」なのである。
話てくれている間はかまわない:これには深くて長くてくだらない理由がある。私も会社に6年も勤めていると庶務の女の子がけっこう入れ替わるわけだ。私が知っている限りにおいて私の努めていたオフィスの女の子はみないいこばかりで合った。そのなかでもときどき「これは」と思えるようないいこがいるのである。その一人が私の同期と結婚していまや一児の母となっても昔の輝くような笑顔はそのままの通称「ふなふな」である。彼女は極めて義理堅いひとでもあり、私が自分の送別会に「女の子で結婚するこは教えて下さい」といったところ本当に葉書を書いて教えてくれた。この葉書は本当にうれしいものであった。
さて日本に帰って新しい課に来てみれば庶務の女の子は通称「いそいそ」であった。彼女には当時からもう長いつきあいの彼氏がいた。彼女は誰にでも優しかった。それでも彼女が結婚退職する日は私にはつらいものであった。彼女のボケが見れなくなると思うと寂しかった。彼女に言わせれば「最後に挨拶にいったとき大坪さんが”うるうる”していたのを見てこちらまで”うるうる”してしまった」のだそうだが。
それから私は悟りをえた。このさい彼氏がいようがなんだろうがかまわない。その女の子の笑顔を見れるうちはしあわせじゃないか。別に変に意識する必要なないと。戻る
妙な英語:いつも思うのだが、この英語は日本人が喋っているのかそれとも米国人が喋っているのか、それとも英国人がしゃべっているのか。いずれにしても妙な発音だと思う。私の英語はもっとずっと日本語に近い。などといばれるような話しではないか。戻る
言って渡した:しかし本当のところを言えば、ここで電話番号を聞くべきなのかも知れない。相手に電話番号を渡してかかってくるのを待つと言えば聴こえはいいが、単に弱気なだけなのかもしれない。戻る
男女の仲は別れ際(トピック一覧へ):「めぞん一刻」(参考文献一覧)という名作漫画のなかで、2枚目で通っている三鷹という男が主人公であるところの男に諭すセリフ。「君も男だったら別れ際に肩くらい抱いてやりたまえ」と続く。私はこのセリフはけだし名言だと思うのだが。かと言って別れ際の印象がよかったからと言ってその後もうまく行くなどと考えるのは楽観的にすぎる。過去に「じゃあね」と言って分かれた後かならずー名残惜しそうにーこちらを振り返って見る女の子とつきあっていたことがある。しばらくたってから彼女は複数の男(すくなくとも2人以上)にそうしていたことが判明した。などといろいろなことがあるとだんだん懐疑的になっていくのである。戻る