日付:1999/12/16
2000/8/24・ずいぶん久しぶりにこの文章を書くことになる。途中お盆休みや「一回休み」があったのもとにかく、今週は曹操の側が描かれたからだ。
・個人的な好みのせいか、あるいは、作者自身のせいかどうか知らないが、やはり劉備の事を描いているより、曹操の事を描いている時のほうが面白いように思う。今回も最後の
「誰だっけそれ」
という曹操の顔でえらく笑わせてもらった。
・最近この漫画は赤壁の戦いで終わりになるのではないかと思っている。その後も延々と戦いは続くが天下が3分されることは、赤壁の戦いの結果でほぼ決まってしまうのだ。尻切れ蜻蛉になってしまうかとも思ったが今週の盛り上がりをみれば、そこで終わるのがちょうど良い気もする。
・この前の回で、「うっとうしい男」劉備は開き直ってさわやかな笑顔。自分の息子が死んだ時に「緒戦は劉備の勝ち」などと言い放つのだから、まことにはた迷惑な男だ。
・とにかく劉備が中心になってからというもの、退屈でしょうがない。著者の言うところの「わくわくした12月」とはほど遠い、暑くてだらけるだけの盛夏という感じだ。
先週と同じ疑問が頭の中をよぎる。そう思っているのは私だけなのだろうか。著者も執筆に身が乗らないのだろうか。あるいは著者はちゃんと乗って描いていて、(大半の)読者もそれを面白いと思っている。「暑い暑い。だらける」と言っているのは私だけなのだろうか。
一時は消えた今後の展開への不安がまた大きくなってきているのだが。
・相も変わらず劉備は「おまえはおれの嚢に入っていない」などとのたまわっているが、私にはどうしても「嚢に入る」というのが理解できない。そして正直そうした事を観たこともないのだが。
あるいはこれが理解できない私のほうが変なのか。
・劉備の「生まれもった性質をそのままで生きる」ことが徳、という言葉はいいとしよう。所詮人間はそうしたものだ。人の質は変わらないのだからそれを曲げようとしたり、否定したところで心が疲れるばかりだ。それが他人からみてどうかはまた別の問題だが。
しかし「嚢」の中に人がはいって生かそうとしている、というセリフは陳腐でつまらない。人は他人の嚢にはいったりなどはしない。それは個人の勝手な思い上がりにすぎない。所詮道は一人で自分の足で歩いて行くしかないのだが。
・久しぶりにカクのどこか情けない顔が描かれた。素晴らしい能力をもつ軍師でありながら、時々見せるこの情けなさが愛すべきところだが。
・来週はまただるい趙雲の活躍でも描かれるのだろうか、と不安になってはみたが、巻末の予告編は面白そうだ。とはいっても巻末に書いてあることはあまりあてにはならないからなあ。。
・単行本の裏表紙によれば、物語を1年とすると、今ようやく12月にはいったところとのこと。逆に言えばこの物語は赤壁の戦いで終わりなのかもしれない。
・妻達の間で一人ユニークだった亀ちゃんには子供ができなかったのだな。劉禅の愚鈍ぶりも印象的だが。
・徳などという余分なものも家族も捨てすっきりした顔で走り去ろうとする劉備。カクにあざけり笑われようが知ったことではない。
そしてそれを、そして自分の行く末をまた妙にすっきりした顔で見る公徳。曹操の長子も同じように描かれたことがあった。彼はもうすぐ死ぬのだな。頭がよく、あれこれと気を使う公徳より、愚鈍とよばれた劉禅のほうが(結果はどうであれ)君主としてはふさわしいのかもしれない。
・生き延びてこそ天下人とも言えること。徳の人だなんだという名前は勝手に人が呼ぶこと。家族を守って死ねばそれまでだ。
・今週は特に書くことはない。張シュウは愛すべきキャラクターだったが。
・先週今後の蒼天航路に不安を抱いたが、今週はまったく違ったトーンだった。義侠だの、徳だの他人が勝手に作り上げた像をすてて、劉備は自分の心だけで生きようとしている。わがままに自分勝手に。
生きるというのはこうしたことで、それがほとんどすべてなのかもしれないのだが、なぜだかこのことは忘れがちだ。やたらとメンツであるとか立場とか他人の風説などに振り回され、ふと気がつくと足が地から離れていたりする。そしてWhat do I want ?を忘れてしまう。他の人や環境を批判することは容易だが、それはWhat do I want ?がなければ時間つぶしにもならない。
私も人生の半ばをすぎたせいか時々今週の劉備を観ていて共感するような気もちになることもあるのだが。
・私は六トウを読んだことがない。だから今週の曹操の言葉はわからない。いずれにしてもこれで長々と続いた張飛の場面も終わりかと思うとほっとする。ただ今後の展開に少し不安を抱いたりもするのだが。
・ようやくだるい張飛の活躍場面は終わった。本来の「戦い」の場面になったのだ。戦いとは所詮むごたらしい殺しあいであり、活躍する、とは人を無惨に殺し続けることなのだ。
・「侠」だなんだと言葉をかざってみても人間のもつ、民のもつ、戦いのもつ、そして人間のもつ残虐性からは逃れようがない。「革命とは暴力である」と毛沢東は言った。動機はなんであれ、あらがって何かをしようと思えば、その結果は恐るべき物となる。その覚悟がなければあらがおうなどと思わないことだが。
・先週「武将の戦いは終わりに近づいている」と書いたがそうはいかないようだ。しかし正直いって張飛には興味がない。その活躍の場面もだるいだけだ。
・劉備の息子公徳も親の血をうけついているということか。彼はいつ居なくなってしまうのか。
・武将の戦いは終わりに近づいている。講談であれば張飛の活躍が延々と続くところだろうが、そうはいかないのが、蒼天航路の蒼天航路たる所以か。
・夏候惇の「おお。俺は何も捨てんでいい」という言葉はわかったような解らないような。曹操とともにある天に身命はあるということか。
・今週は武将達の戦いである。例によって私の印象に残るのは圧倒的に押している張飛ではなく、それにまっすぐ進んでいく楽進のほうだ。
・来週は夏候惇がでるようだが。。
・張飛と趙雲はしんがりで、お互いの義侠の心を確認する。おそらく普通の三国志であればここは二人の心意気の見せ所なのかもしれない。
しかしながら私はこの場面をみて別の事を考えた。
「死地に臨んで立ち返るべきはただ一介の侠者の武と心」
これは美しいセリフかもしれないが、所詮このセリフから生まれるのは一人の義侠の男だけである。それ以上の事はうまれようがない。
趙雲それに張飛は一人で万に対峙することができる武将だったのかもしれない。しかし王たる物とは全く別の人種だ。今週の彼らのセリフはそれがよくでている。
・表紙で笑みを浮かべながら逡巡橋を渡る子供の曹操。こういう男と相対するのも楽ではない。
・「橋を渡った」と忌野が歌ったことがあった。確かに彼は-忌野は-橋を渡ったのだ。そして私は渡っていない。このまま一生渡らずに終えそうな雰囲気ではあるが。
・今はともすれば萎えそうな気力をふるいたたせて書いている。お気楽な書評ですらこうなのだから、作者というのはどれほどの困難と立ち向かっているものなのであろうか。
・劉備は夏侯惇の目からみればすでに天下人であるが、本人は今その境目をさまよっている。来週をお楽しみに。
2000/2/24 十九巻 その二百十九 obsession
・赤壁の戦いが始まったときに「この戦いは簡単ではない」と書いた。
そこが特に劉備の側にとってどうであろうか。時々考えることがある。蜀を作り、長年他の2国と戦争を続けたことはいったいなんだったのかと。最終的に蜀が滅んで、何がおこったというのだろうか。最後のコマにあったように確かにここで劉備が死んだほうがよかったのかもしれない、と思うこともある。
・「民の笑顔を観たいのではなく、自分に笑顔を向けてくれる民がほしいのだ」と劉備は言われる。そこで彼が崩壊するのをみれば、おそらく図星だったのだろう。組織で「他人の笑顔が観たい」などといっている人間もほとんどはこの類かもしれない。あるいは「徳がある人だ」などと他人がいっていて、自分がまんざらではないと思っているのもそんなものだ。人間が利己的で、自己中心的なのは或意味当然であり、どこも恥じることはないのだが、その「当然」認めようとしない人間は返って罪深いかもしれない。
「他人の為に何かをしたい」などというのはスローガンとしては悪くないが、基本的には大嘘であるこということは考えて置かねばならない。人は所詮人それぞれ勝手な意志で動いている。「他人の為に何かをする」というは「あなたが考えているところの”他人にとって役立つこと”」でしかないのだ。
・思えばここまで劉備は「曹操の下にはつかない」「民の笑顔が観たい」などと言って諸侯の間を放浪しているだけの男だ。彼は「これはいやだ」とは言っているが「自分が何をしたいのか」とは言っていない。とすれば「これはいやだ。あいつはきらいだ」と否定形だけで物を言っているだだっ子のようなものだ。(成人を越えてもこの類は大変多いが)
勝手に作り上げられた大徳などという幻想を忘れ、「俺はわがままな人間だ。他人のことなんかかまっちゃいない。俺はこれがしたい」とわめき出すところから蜀という国が生まれるわけか。
・張飛の見せ場は続いているが、それ自体は先週でも書いたとおりどうということはない。笑えるのは騎馬にのせられて
「なんというけつの痛さ。殿。お怨みもうしあげますぞ」
といっているジュンユウだ。曹操の軍師になるのも楽ではない。
・さて、一方の劉備は孔明といっしょにいる女性達にからかわれて一言も言い返せない。彼も自分の道を決めなくてはいけない時にさしかかっているようだ。だに、蚤、寄生虫のままで生きるのか。自分の足で立ち上がるのか。
・さて、ようやく張飛の見せ場というやつだ。今まで蒼天航路では彼は笑い者になる役であったが、あるいは彼にとって唯一の活躍の場かもしれない。しかし関羽あるいは呂布のこうした場面にくらべて今ひとつ重みにかけるのはいたしかたがないか。義侠一筋に生きる男がこれほど軽く見えるとは。蒼天航路の登場人物がいかにその存在感をもっているか、ということであろうか。
・大博打をうつ時の勝負師の顔、劉備はロシュクの顔をそうみた。こうした事が言えるのは劉備ならではか。
・来週号の予告にある題名は「舌戦全敗」である。今までの例からするとこの「来週の予告」はあてにならないことが多いが、すでに孔明といっしょにいる女性達が劉備に問答をしかけている。となれば来週は確かにそのような内容になるかもしれない。
しかしこうして漫画で観ていても劉備はよくぞ生き延びたものだと思う。彼を殺すことを考えた人間は山ほどいたであろうに。あるいはそれを思わせなかった人なのか。
・劉備の逃避行が続く。今まで読んだ三国志ものでは、この逃避行が今ひとつピンとこなかった。人徳の人劉備。であれば何故曹操に襲われるのを承知の上で大勢の民をつれてゆっくりと逃避行をする?しかし蒼天航路に書いてあるような劉備であればわけはわからないがなんとなく納得もいこうというものだ。
・関羽が「妻」と別れる。特に劉備達の「家族」というものは正史のなかでは大変はっきりしない。劉備においてよくわからないのだから、他の関羽や張飛にいたってはなおさらだ。彼らは定住する土地をもたず、身一つで諸侯の間をまわり、生き延びた。「情が移ったものが家族だ」とは劉備のセリフだが、家族とはそうしたものであろうか。
・最後のコマで劉備は冷や汗を満面に浮かべながら、強がった歌を歌っている。それに唖然とする軍師、将軍達。さて、来週は。
・国とはすなわち人である、と黄巾(青州)との戦いで曹操が言ったような気がする。そうであれば何故かわからないが人を集めてしまう劉備は確かに曹操にとって最大の敵だ。その劉備と江南にしっかりと根をおろしてしまっている孫一族との戦いを前にして「初陣の心持ち」になるということだろうか。
軍師の献策に対して、皮肉のまじった言葉で答える曹操はこれからの戦いがそうした策を弄することで片づくようなものでないことを感じて居るかのようだ。
・久しぶりに夏候惇と曹仁の笑えるコマがあった。いつものことながら曹操がこの二人をからかうところは爆笑ものだ。
・ロシュクが言う「一代で神性をもつかんだ覇王の後を人は結局追いきれない」と。始皇帝、信長、アレキサンダー大王、ナポレオン、ヒトラー等々であろうか。所詮長続きするのはあまり大河ドラマの主役にはなれない家康が作った「政体」なのだ。
こうしたセリフをはける男が敵側に居るというのは曹操にとってはどうだったかしらないが(あるいは同じかもしれない)こうして漫画を読んでいる身からすれば実に興味深い事だ。
・劉備についていこうとする数十万の民の熱い声。それは感動を呼ぶのかもしれないが、私はちょっと斜めに見ている。多くの人の声というのは、かくも的はずれに集結するものかと。
「幻がなければ民は堕落する」とは聖書の言葉らしい。そして「ビジョンは的はずれなものであっても人をひきずっていくものだ」とも。劉備は別に言葉でビジョンを語ったわけではない。しかし彼の行動は周りを引きずり引きずられ、独自の物として「この人の国」という幻想を民に与えたのだろう。そしてそれに引きずられた民がどのような運命をたどるかはそのうち明らかになる。
・劉備の戦いが続いている。彼は一つところに7年いただけで義情の人と呼ばれ、たくさんの人に慕われることになった。こうした義情というものは、人が空間的、時間的に離れているときはどうかわからないが、接している時にはつくろうと思って作れるイメージではない。逆に作ろうと思えば、その反対のイメージを作り上げるだけだ。
劉備が「おめえらはさっぱりわからねえ」と言うのももっともだが、まあことこのことに関してはだいたいそういうものだ。
・その劉備に対し、城を乗っ取れ、と進言する孔明。それが人がもっとも死なずにすむ国の作り方であれば、そうするべきなのだと思う。そんなことをすれば、劉備は劉備でなくなり、あの民は消える、という趙雲に対して「そういうものなのですか?」と真顔で聞く孔明。私も孔明が正しいと思う。実際にどうだったかは知らないが、劉備は小の虫を殺せないで、大の虫を殺した、それでもどこか人をひきつけ続けたはなはだハタ迷惑な男だったのかもしれない。
・さて、いよいよ赤壁の戦いへと話は続いていく。この前も書いた通り、この戦いというのは理由が簡単ではない。しかしながら、今週の劉備の言葉が一つの事を物語っている。
「おいらは曹操には降らねえ」
彼は「曹操には」と言っている。しかしおそらくこの男は形式的にどのように見えたかはしらないが、生涯誰の下にもつかなかった男ではないかと思う。そしておそらくは孫の一族もそのような男だったのだ。そしてそのことが「天下を無闇にかき乱してんのかどうか」の答えがどうでたのか、この漫画がそれをどのように書いてくれるのかは先の楽しみとしておこうか。
最近時々考える。男の下につくことができる男がいる。そしてそれが絶対にできない男が居る。形式的にどう見えようとそんなことは夢にも思わない男が。
・そして曹操自体がそのような男であるからには、それにたいし「こびへつらいの笑い」をすれば結果は明白だ。仮に劉表の家臣達がが劉備の首を曹操に差し出したとすれば、それはユリウス・カエサルにポンペイウスの首を差し出したエジプトの宦官達のようなものだ。そして彼らと同じ運命をたどったことだろう。
・気配を消して近づく曹操に、それに真っ向から立ち向かおうとする劉備。これから赤壁の決着がつくまで目が離せない。