日付:2000/1/22
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2000/1/21オウム改めアレフ(誰もこの名前で呼んでくれないのは気の毒なことだが)は彼らなりに所謂「オウム新法」を避けようとがんばってはみたようだ。名前を変え、一連の大量殺人への麻原の関与を認め、対外活動を自粛し。それに対する世間の反応はひややかだったが。しかし今から考えればこれは彼らの生き残りへのチャンスかもしれなかったのだ。世間が望んでいる行動をようやくとった。これで「我々は変わったのだ」とアピールすることも可能だったのに。
それが「観察処分」の意見聴取の時に「麻原の教えの大部分は危険なものではない。麻原の教えで助かった人はたくさんいる。これからも麻原の教えの良いところを信じていく」と言ってしまうのは、「宗教団体」の性というものか。特定の人の言葉を理屈も何もなしに特別なものとまつりあげ、盲信するのが宗教であるならば、彼らがいかに理性を働かせて法律のがれをはかったところで、彼らの存在理由-麻原を盲信する-自体を否定することはできないわけだ。
それと時を同じくして教団内で麻原の長男の拉致事件を起こしてくれる。まるではかったかのように。これでGame Overだ。周りが自分をどう見ているか。自分がどのような状況にあるかを認識できず、周りからみれば「いくらなんでもこんな馬鹿なことを」という行動を自分達だけの論理で行い続ける姿は、どことなく第2次大戦時の日本の行動と重なって見える。(かといってかつての日本がオウムだった、などというつもりは全くない)
処分は下されるだろう。そして彼らの危険性は減少するだろう。しかし今や最終的な解決策を考えねばならない。今やオウムの人間はどこにも移住できない状態だ。かといって日本国から閉め出すわけにもいくまい。となればどこかに落ち着く先を見つけなければならない。
さて、ここに書く気もおこらないほど静かに、親愛なるClintonの最後の一般教書演説は終わった。すでに皆の関心は次の大統領選、それにFirst Ladyたるヒラリーの上院選に移ってしまっているのだ。
さて、大統領たるClintonを一貫して支持した米国民だが、大統領選の話をあれこれ聞いていると、別に彼の行動自体を支持していたわけではないようだ。嫌悪感は感じながらも大統領を首にするほどではない、というところであったのか。
内政は短期的にはうまくいったようだ。黒字、失業率の低下という言葉が踊る。反対に外交は私から観ても妙なことばかりしていた気がする。意のままにミサイルをぶっぱなし、国内でやった国際会議でも内政の都合を優先させ。しかし大統領選では外交は全く考慮されないそうだからそれでもいいらしい。こう考えると彼は
「大統領として必要とされる最小限のことだけをやった」
という気がしてくる。この「最小限」を極限まで見切り、個人としての倫理観と外交はその範疇外とし、それが見事に成功した、ということか。
さて、ある日こういう漫画をみた。
「おれはインターネット診療サイトを立ち上げたよ。どんな質問を聞かれても”早く寝ろ”としか答えを返さないんだが。しかしあとは株式公開(IPO)を待つだけだ。そうなれば億万長者さ」
実際米国でものすごい時価総額を持っているインターネット関連企業の多くはこういう類のものである。Clintonが達成した「米国経済の活性化」がどの程度のものであったかは、もう少し長い目で見ないとわからない気がする。膨らんだ泡を差し引いても何か残るコアがあるのか、あるいは単なる泡の集合体なのか。
さて、国内に目を移そう。親愛なる選良たちは、自分たちにしかわからない論理をもって国会をさぼってみたり、自分たちだけで国会をやってみたり。そしてお互いを「民主主義を破壊した」と真面目な顔で非難している。こうしてみると政党名が違っても彼らは大変特殊な資質を共有しているようだ。N○○にも通じることだが、完全に自分たちだけの論理で行動できる、というやつである。
かといって「専門職がだめならコメディアンを」といったら大阪府の知事のようなことになるだけ。第3の道はあるのだろうか。しかしまあこうして国会議員が遊んでいられる、というのは平和な国の証拠である、という気もするが。
もうちょっとワイドショー向けの話題でいえば、餓鬼達は格好の餌を二つも与えられてとても幸せそうだ。京都の小学生殺害犯の母親の気持ち、それに小学生の母親の気持ちを考えるのはつらいことだ。
最後に訃報。荒井注が亡くなった。私のような年であっても彼がドリフターズでやった最後の挨拶は記憶の底におぼろげに残っているだけだが。TVで言われていることを聞くだけでも芸能人という職業にはとても多くの生き方がある、という気がする。指名手配犯になってしまうものから、彼のように大往生を遂げる人もいる。
もう一人、Peanuts-Snoopyやチャーリー・ブラウン-の作者もなくなったようだ。引退を発表したのが去年の暮れ。最後の日曜版が掲載される前日だったのこと。私の本棚にはPeanutsが数冊文庫本で存在している。「英語の勉強」とかなんとかいいながら、実は内容が好きなのである。新作がもう読めないとは残念だ。そして半世紀にわたりこの漫画を書き続けた作者の人生とはどのようなものであったか、などと考えたりもする。
週刊誌は女性監禁事件の犯人が持つ異常性について忙しく報道しているが、一方では親愛なる警察の方の馬鹿げた嘘シリーズも公になりだした。
最初に通報を受けたが出動しなかったことについての警察のコメントは面白かった。正確に記憶しているわけではないが、
「同じ公務員なのにそんなことばかり押しつけられても困る」
それからと言うもの、うちの母がいうところの「一つ嘘をつこうと思うと100も嘘をつかなくてはいけない」を思い出すような事ばかり起こる。私としては、彼らがいかに想像力に富んだ言い訳を見せてくれるかが楽しみでもあったのだが。
「取材が病院に行くと迷惑がかかると思った」とはよく言った物だ。ようやくトップが首になったが、首にしても何がかわるわけでもあるまい。
どんな組織でも2%は変な人がいる、と以前父から聞いたことがある。従ってどうしても警察官による不祥事が生じるのを「完全に」防ぐことはできない。しかし最近明らかになったことはそうした「どうしても防げない問題児」が起こした物ではない。すべての状況はこれが「警察の体質からきた問題」であることを示している。となれば、これが改善されるにはPainfulなことだがまだまだ時間がかかるということだ。
走査線上に上るはずの犯人が上らず、母上からの相談を無視し(これについては記録を抹消するボーナス付き)、出動要請を断る。ここまで問題が続くと、彼らが組織的にこの問題にかかわりたくない理由があったのではないか、などと私などは勘ぐってしまうのだが。たとえば犯人の父親が政治的に強い影響力を持つ人間であったとか。
-もしこれが事実であって、その筋の方が読んでいたとしてもこれは私が勝手に想像していることで何も証拠をつかんでいるわけではないですから安心してください。私を殺そうと思わないでくださいね。(これはまるでゴルゴ13のネタのようだが)
さて親愛なる皇太子は40の誕生日を迎えた。私は彼の記者会見での言葉を聞くのが楽しみだ。彼を個人的に知っているわけではないが、皇族が発する政治的に正しい言葉であってもその言葉の選び方の端々から人柄が伺える気がする。
雅子が順調に回復しており、それが何よりもうれしい、と彼は言った。次に雅子様の報道につき彼が言った言葉は実に明確であり、もっともだ。親愛なる朝日新聞は彼の言葉を掲載しながら、頭の一つでも掻いたのだろうか。あるいは舌ぐらいだしたのだろうか。
いや、もっと現実的に考えよう。きっと「全くそうだ。報道機関は事実を冷静に述べるべきだ。報道の過熱は問題だ。」と自分がしたことを全く棚に上げて首をふり、次の瞬間には「次にご懐妊の兆候があったときも、他の新聞に遅れをとるなよ。宮内庁の発表を待つなんてのはもってのほかだ。今度の時も我々は歴史に残るスクープをものにするんだ!」とハッパをかけているのではないだろうか。
私は別に皮肉っぽくではなく、この文章を書いている。今の会社で1年以上勤めた後では世の中にこうした「正気な狂気」が存在していることについていささかの疑問をもつものではない。
米国の大統領選もHeat Upしてきた。共和党はBushの楽勝かと思われていたがMcCain氏の健闘で、私のような野次馬には俄然おもしろくなってきた。苦戦に伴いBushもあの「中傷合戦」に訴えたようだ。なんのかんのといいながら、所詮最後にいきつくところは悪口の言い合いか。日本では「中傷合戦」としか報道されないが、あの馬鹿馬鹿しさは実際に毎日CMで見る身でないと実感がわかないと思う。NHKで報道特集でも組んでもらえないだろうか。大統領選について多くの日本人が抱いている妙に好意的な印象に少しはRealityの冷や水を浴びせることになると思うのだが。
最後に軽い話。今度のNHK大河ドラマは北条時宗だそうである。これは塩野七生が「男の肖像」で提案していたことで、私は読みながら「ふむふむ。これはいいアイディアだ」と思っていたら本当に実現された。信長、秀吉、家康なんてのはもう見飽きたが、今度は久しぶりに大河ドラマをみてみるか。
米国の大統領予備選挙は、本命二人の争いにしぼられたようである。McCain氏は善戦はしたものの所詮及ばなかったようだ。あの二人がどのような選挙戦を見せてくれるかはなんとなく楽しみなようであり、楽しみでないようであり。どちらが勝にしろClintonが残したバブルの始末は彼らの仕事になるのだが。
さて、日本では親愛なる小渕君が倒れてしまった。マスメディアで何度も言われていることだが、この場合の秘匿の仕方というのはソ連の書記長を思い出させる。
4月2日、日曜日の夜にNHKをぼんやりみていた。するといきなり「番組の途中ですがニュースをお伝えします」ときた。また有珠山が爆発したか、と思ったがでてきたアナウンスは「小渕総理が緊急入院」である。
この時はたしか11時近く。11時半に記者会見が行われる、というからそれまでしゃべるネタはない。しかしそのうち妙なことに気がついた。私はいま小渕総理がたおれたと思ったのだが、入院したのはこの日の朝1時というではないか。ということはその間何が起こっていたんだ。
まもなく行われた記者会見では実に興味深いやりとりがなされた。小渕総理は「過労」のため入院したとこのことで、それ以外はいっさい知らぬ存ぜぬだ。
翌朝になりあちこちのサイトをまわるとどうやら集中治療室にはいっていること、脳梗塞、心筋梗塞の言葉が漏れ始める。そして11時の記者会見でようやく脳梗塞と発表があった。
入院して半日たって「脳梗塞」を「過労」と誤診するような病院があるものか。
「何か起こればとにかく隠す」
は日本のすみずみに根付いている伝統であり、別に政治家や警察の方々だけが特別というわけではない。嘘だと思うならオウム事件のときのTBSの対応を観てみればよい。しかしこれだけ情報が出回る世の中になってしまうと嘘は必ずばれる。それでも隠さずには居られないのは人間の性というものか。
とはいっても私は彼らを弁護しているわけではない。総理が11時間ほど所在不明になる、というのは許されざる事項だ。しかしそれがおこってもびくともしないのが日本の政体の強み、というやつかもしれない。動きは鈍いが一発で停止することもない。
しかし小渕氏の治癒を祈る言葉がいきおい「後継首相」などの声に隠れてしまうのは首相という職業がら仕方ないとはいえ気の毒なことだ。その能力の是非にはいろいろな声があるだろうが、彼はまさしく公僕として働いていたことは疑いようがないだろうに。
いくつかのコメントの中で朝日のサイトにのっていた小沢一郎のコメントは興味深かった。(今回の報道の中では朝日新聞のサイトが一番冷静に興味深いコメントを載せていた気がする。)
倒れる5時間前に小渕氏と合った小沢氏は「「何でこんなに古い話ばかりするのかと思った」という」そして連立離脱を確認するはずだったが、
「「事態の推移を見守るのがせめてもの礼儀だ」と、正式決定を見送った」
一方自由党から分離した保守党は予定通り旗揚げを行い、
「乾杯しましょうか。それとも万歳がいいかな」と笑顔で記者にむけてポーズをとった。
この記事だけ読むと私は保守党よりは小沢氏の自由党に投票したくなるのだが。
国会の党首討論だかなんだかで小渕氏が警察の不祥事につき「運が悪い」と発言した、と大きく取り上げられたことがあった。しかし私があの場面を観ると、確かに小渕氏の言うとおり「(つかまった連中は)運が悪いと思っていたかもしれませんが、そうではない」と一連の発言をしようとしていた中での言葉と思える。一つには言葉の流れから。もう一つはその後の小渕氏の反論の仕方からそう思えるのだ。
しかしマスメディアはのんきに「小渕が”運が悪い”と言った」と大騒ぎ。これが自分の発言に責任を持たない人間だったり、周りの言うことを気にしない人間だったら気にしないのだろうが、それができない人間にはさぞかしつらかろう。
こうしたことがあるとつくづく思うのだが、他人に気をつかったり、いろいろな事を考え合わせて、慎重に判断し主張するよりは、視野を狭くし、他人の迷惑かえりみず自分のことだけをわがままに主張できる(と自分が思うのでなく、他人からそう思われている場合)ほうがずっと世の中幸せに暮らせる気がする。
最近なにかと「失言」問題がかまびすしい。しかし彼らが無邪気に騒いでいるところを観ると「他に何か言うことはないのか」と思えたりする。
某都知事の「三国人」という言葉は生まれて初めて聞いた。都知事の会見で「やれ責任だ、それ辞任だ」と騒いでいる記者さんたちも「どうして差別用語なんだ?」と問い返された時に誰か理論整然と反論できたのだろうか?TVではそこまで確認できなかったのが残念だ。それができなくてただ騒いでいるとすれば実に情けない気がするのだが。
さて、首相のほうは「嘘をついてもいいんだろう」と言ったとかでこれまたマスコミは大喜び。しかし彼の発言した様子を見ていると「悪い冗談」で言ったとしか思えないのだが。 それで喜んでいるマスコミもまあ仕事とはいえ、自分たちを笑い飛ばすくらいの余裕はないのだろうか。
しかしふと思った。かの吉田首相は「曲学阿世の徒」とか「不逞の輩」とかいう言葉で問題になったと聞いている。そこから思えば「失言」もずいぶんと格調が落ちたものだ。いいかげん、こうした「失言騒ぎ」にはうんざりしている私としては、たまにはこうした「格調高い失言」でもしてもらいたい、と思ったりするのだが。