題名:失敗の本質の一部

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日付:2004/9/12


太平洋戦争におけるいくつかのケース

こうした「頭の中で造り上げたバラ色の幻想のみに基づき行動する」傾向は太平洋戦争においても随所に観られた。

ガダルカナル

ガ ダルカナルに侵攻してきた米軍2個師団を日本は「威力偵察」と断じた。そして日本軍が(その幻想に基づき)十分と判断した兵力を送る。一木支隊は敗退し、 その後に続いた川口支隊も敗れる。それではと更に兵力を増そうとするが揚陸中に空襲にあい重火器を失う。已む終えず川口支隊と同じくジャングルからの夜襲 を試みる。密林からの奇襲と言えば聞こえはいいが兵力を増しただけで同じ方向から同じように攻撃をかけようとしたのである。その攻撃前夜にガダルカナル島 からは電報が打たれている。

「同二十一日の電文にいたっては、今日ではとうてい信じ得ないほどの必勝確信に溺れている。電文に曰く、

「殲 滅戦前日の感慨無量なり。二十三日にはガ島攻略は完了する見込みにして、それより約五日の後、軍の直轄部隊大部分は直ちにツラギ、レンネル、サンクリスト バルに転進して、これらを占領する予定なり。ラビ攻略(注、ニュウーギニア戦)の部署はガ島において行うを可とするにつき、参謀長以下若干の幕僚は、ただ ちに前進準備ありたし」

とある。すでに占領を終わった後に打ってしかるべき電報が、攻撃をはじめない前に打たれている。自惚れという言葉だけでは説明不十分なる思い上がりようであった。」

帝国陸軍の最後 第2巻P76

こ の「自惚れという言葉だけでは説明不十分なる思い上がりよう」も前述した仮説を支持する物とならないだろうか。敵の現状も味方の窮状も味方が2度敗退した という事実も関係ない。彼らの脳内では日本軍が立案した「奇襲」が成功し敵が降伏する姿がありありと描かれていたに違いない。

攻撃開始後、主たる目標であるルンガ飛行場を占領した場合に発信すべき「バンザイ」という電信符号が発せられた。大本営から宮中まで攻撃成功の知らせに喜んだが、その三十分後には誤報である、と訂正電話がはいった。以下引用する。

「右 翼隊の一部が進入したのは草原であり、飛行場はそこから一キロも奥にあって、まだ第一線陣地にも達していなかったのだ。(中略)少しく冷静なる者より観れ ば、三十分や一時間で大陣地が占領されるような戦争は絶対にあり得ないことがわかる。記録を調べてみると現に現地司令官百武中将は、その電話報告の参謀に 対し、「いったい飛行場占領というのは、いかなる範囲のことを意味するのか。一部分に踏み込んだのか大半を占めたというのか。それを至急知らせるよう手配 せよ」と命じている。歴戦司令官の至言であって、その確認には時を要し、検討を要する性質のものであった。

ところが事前から必勝を確信し、「一挙撃滅」といきり立っていた参謀たちは、老将の心配を深く歯牙にかけず、当然の勝利が当然に得られた者として、とにかくも「バンザイ電報」を発信してしまったもので、要するに、心おごれる者に生じやすい錯誤の一例にすぎなかった。」

帝国陸軍の最後 第2巻P87-88

この例は「それまで連戦連勝だった」日本軍が勝ちにおごった結果、と観ることもできるかもしれない。ではその後の連戦連敗によって日本軍の思考方法に変化はあったのだろうか。

レイテ

台湾沖港空戦における誤った大戦果の発表を陸軍はうのみにした。そしてレイテ島に米軍が侵攻してきたとき

「驕敵撃滅の神機到来」

と南方軍司令官寺内は叫んだ。レイテ島に展開した陸軍の指揮官鈴木は自信に満ちあふれていた。以下引用する。

「山 下方面軍司令官から発しられた「空海決戦が有利に進展したる場合に置いては、第二十六師団および第六十八旅団の上陸地点は、いずれの方面を適当と思惟さる るや」との質問に対し、第三十五軍が即答した文章は勝算すでに成れる者の、胸を張っての大声をつづったものであった。曰く、

「空 海決戦勝利を得たる場合に置いては、遠くこれを海上追撃に使用せらるるを適当と信ずるも、しからざる場合にはカリガラ湾に上陸せしむるか、あるいは状況に よりては、第六十八旅団なりともレイテ湾に逆上陸せしむるを適当と信ず」というのであった。海上追撃とはなんぞや?驚いてはまずい。それは、米軍を逆にモ ロタイ、ビアク等のニューギニア方面に追い落とすことを意味するもので、レイテ島内の陸戦用にはあまってしまって使いようがないだろう、という高言を吐く にもひとしかった。(中略)

かくも易々と必勝を保証しうる根拠は、いったいどこにあったか。その「レイテ決戦作戦」なるものは、第一に米軍の上陸兵力を過小に見積もり、第二にその進撃の時期を過当に遅く見積もった想定の上にきずかれていた。」

帝国陸軍の最後 第3巻 P278-279

ガ ダルカナル以来というもの帝国陸軍は英米軍相手に一度も勝利をあげることができずに敗退を続けていた、という現実があった上で「日本軍が十分と判断した兵 力」が集結しただけでこうした自信を抱く。あるいは「確固たる信念」とか「前向き思考」というラベルを貼ることもできるかもしれないが、より適当な表現は ノモンハンの戦いに向けられた以下の言葉であるように思える。

「精神病一歩手前の捕捉撃滅幻想であった」

ノモンハン 第2巻 P113

し かしながらそれは旧陸軍においては「正しい」物の見方であった。そして私がこの文章で着目したかった点はその「幸福幻想主義」自体ではない。その「幸福幻 想主義」が実に堅牢であった、という事実である。手ひどい現実からのフィードバック-23師団の壊滅,川口支隊の敗北、数年にわたる敗退の連続-によって もその思考方法に変化がなかったという点である。

たとえば日本陸軍が持っていた思考方法は諸外国にも観られた、としてノモンハンでは以下の例が挙げられている。

「第 二点は、諸外国の軍隊の思考方式のなかにも、これと有る程度の類似性が観られたことである。サンシュ・ドグラモンによると、フランス陸軍は長年にわたり、 「新しい考えには懐疑的で」、白刃こそフランス陸軍にとり完璧な武器であり、「情熱的はあるが冷めやすいフランス人の気性にぴったり」だとする考え方に愛 着を覚えていた、という。(中略)

1930年代の後期には、現代戦の形態について混乱が観られらたが、そうした例を英空軍の歴史に見いだすことができる。(中略)

1940年5月になっても航空幕僚たちは、優秀な「スーパーマリン・スピットファイア」「ホーカー・ハリケーン」の量戦闘機の生産を中止して、複座戦闘機を代わりに使おうと試みていた。」

ノモンハン 第4巻 P317−318

なるほど、確かに同様の幸福幻想主義は観られたのかもしれない。しかし上記の例において、英国は結局スピットファイア、ハリケーンの生産を中止はしなかったし、一旦手ひどく敗退した後自由フランス軍は白刃をふるってドイツ軍に挑んだりはしなかった。

しかし日本軍の幸福幻想主義は堅牢であり、現実-敗北の連続-から影響されることはなかったのである。こうした現象は何も参謀、軍司令官のみに観られたわけではなかった。ガダルカナルに上陸した米軍を奪還するため派遣された一木支隊の隊長一木清直大佐は、

「陸軍歩兵学校教官を数次にわたり務め、実兵指揮に練達した武人であった。」(アメリカ海兵隊P61)

「彼は十二年七月のロ溝橋戦当時の大隊長であり、十七年には内地に残っていた連隊長クラスの中で、もっとも頼もしい歩兵大佐に数えられ、選ばれてミッドウェー島占領守備の大任を仰せつかったわけだ。」(帝国陸軍の最後 2巻P37)

と評される日本軍の尺度では優秀な指揮官だった。その一木が指揮した支隊の全滅について、海兵隊のサミュエル・B・グリフィス中佐はこう書いている。

「こ の血なまぐさい十二時間の戦闘によって、どう理解して良いかわからない問題にぶつかった。一木は、斥候がほとんど全滅させられたのだから、論理的に彼の攻 撃の意図は海兵隊に知られているとは考えなかったのだろうか。なぜ彼はそんなに急いで攻撃したのだろうか。なぜ、彼は川上一マイルを偵察しなかったのだろ うか。そうすれば、部隊を上流で渡河させ、北に進んでイル川陣地を後方から突けたのではないか。なぜ、彼は損害の大きかった第一回攻撃と同じ方法で第二回 攻撃を行ったのだろうか。このような自ら招いた大虐殺を生み出した根拠は何だろうか。その答えの一部は、当然のことであるが、一木大佐の情報不足であろ う。しかし、もっと重要なことは彼の傲慢な現実無視、固執、そして信じがたいほどの戦術的柔軟性の欠如ではないか。」(アメリカ海兵隊 P64-65)

こうした現実を無視し幸福な幻想に浸る姿勢はやはり堅牢であった。

「後年、太平洋戦争のビルマ戦線で、連合軍が驚いたのは、日本軍が相も変わらず独創性を欠いて、ひとつの戦術構想へ後生大事にしがみついていたことであった。」(ノモンハン 4巻P295)

しかしさすがに最前線-現実と容赦なく対面する場所-では幻想の堅牢さにもほころびが見えたようだ。レイテ島の戦いに関してこのような記述がある。

「兵 士はよく戦ったのであるが、ガダルカナル以来、一度も勝ったことのないという事実は、将兵の心に重くのしかかっていた。「今度は自分がやられる番ではない か」という危惧は、どんなに大言壮語する部隊長の心の底にもあった。その結果たる全体の指揮の低下は随所に戦術的不適際となって現れた。」

(レイテ戦記 下巻P294)

しかし同じ頃、現実-前線から遠く離れた東京においてはこのような計画が検討されていた。

「十二月三日、大本営陸軍部ではレイテ決戦指導に関し、第二課長(作戦)服部卓四郎大佐が梅津参謀総長につぎのように報告した。(中略)

「決戦時期ニ於テハ」三個大隊レイテ湾逆上陸に到っては、正気の沙汰とは思われない。

こ れらの案は刊行本「大本営機密日誌」にも、戦後服部大佐自ら書いた「大東亜戦争全史」にも現れることはない。レイテ決戦強行の責任は専ら南方総軍に転嫁さ れるのだが、空想的な机上作戦を推進して、無益な犠牲を重ねた責任が実は大本営第二課にあったことを、これらの文章は明瞭に示しているのである。」

レイテ戦記 中巻 P415-418)

この計画が立てられた12月上旬と言えば、レイテにおける米軍と日本軍の戦力差が実在兵力数にして17万以上対1万以下(レイテ戦記 中巻 P465 第27図)に開いていた時期である。しかしそんなことは幸福な幻想に浸り続ける彼らには何ら考慮すべき事項ではなかったのか。ちなみにこの服部と言う人を「作戦の偉才」(帝国陸軍の最後 2巻P98)と陸軍では評価していた。

ここで考えを前に進めてみたい。なるほど、過去の日本軍についてはわかった。それについて今思いを巡らせることに何か意味があるのか?

答えはこうした思考、行動形式は過去の日本軍だけに観られたものではない、ということだ。次の章ではそのことについて記述する。

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注釈