題名:失敗の本質の一部

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日付:2004/9/12


「ノモンハン」より-壊滅と反撃の計画

ソ連側の指揮官たるジューコフは慎重に偵察を行い、日本軍を上回る兵力を集結する。それだけではなく日本軍を欺く情報工作も行った上で8月20日に総攻撃を開始する。ソ連軍は破竹の勢いで進撃する。しかしそのような状態にあっても日本軍はこのような見通しを持っていた。

「敵の攻勢が「予期した時刻に予期した方法で」始まったという印象を得ていたことであった。第二十三師団の守備陣地はすでに補強済みで、かなり堅固なものになっていたし、南側面を受け持つため、満軍部隊が投入されたばかりであった。

第七師団の森田範正少将の歩兵第十四旅団は将軍廟地区に集結中で、速やかに戦闘配置につくことが可能だった。(中略)だが、こうしたことは現実を無視したこじつけであり、現実には防衛陣地の補強が満足のゆくほど進捗していないばかりか、満軍も頼りなくそして森田が一個旅団の兵力を実際には保有していなかったことに、特に注目しなくてはならない」(ノモンハン3巻P34)

つまり関東軍は相変わらず現実と遊離した己の幻想の中で安心していたわけである。

こうした状況の中第二十三師団の小松原師団長、畑砲兵団長と第六軍藤本参謀長は反撃の計画を巡って議論を続ける。

「畑にとっては非現実的なように思われ、しかも「部隊の現状に合致しない」考えに危機感を覚えたものの、藤本は第六軍の計画の「具体的実施」を畑に求めた。

その間、貴重な時間は失われてゆき、日本軍の両翼での戦況は悪化の一途をたどっていくばかりであった。(中略)戦闘における不利を砲兵が耐え忍びさえすれば、ホルステン河左岸への展開はうまくいくだろう。そうした理由で、畑は小松原に藤本の意見に従うよう意見具申した。

そこまで合意ができたものの、展開線についての問題で小松原と藤本の意見の相違は拡がるばかりであった。二人とも先入観にとらわれ、それまでの論争点から逸脱し、責任とかあるいは個人の名誉といった問題をあげつらう有様であった。」(ノモンハン3巻P72)

こうした議論の末「反撃」の計画が策定される。それはこのようなものであった。

「第二十三師団の攻撃計画には、いくつかの注目すべき特色がみられる。最も注目すべき点は、攻勢移転のための展開が実は新たな兵力を手投入するのではなく、疲労ししかも傷ついた現存部隊の再配置であったことだ。」(ノモンハン3巻P78)

「事実第六軍司令官から関東軍に送られていた報告は、すべて調子のよいものであった。(中略)

さらに報告は、砲火によって日本軍はかなりの損害を受けたが、士気は旺盛であり、左翼隊は爾後の作戦のため、自発的に後退したが、そのほか全ての陣地を堅持しているとしており、さらに二十四日攻勢移転する準備が、予定通り進行中であると述べていた。

それまでの荻洲報告には、敵の攻勢によってひるんでいるといった様子がまったく見受けられなかった。すなわち報告は敵が第六軍の両翼を包囲しようと意図していたのは明らかであるが、その動きは特に重視されるべきものではなく、攻撃はさして激しいものではないとしており、さらに八月二十三日の午後になり、敵の砲火は峠を越したので「ご安心を乞う」と関東軍に対して自信のほどを示した。」(ノモンハン3巻P82)

とにかく攻撃しなければならない。攻撃すれば道は開ける。このような「想い」は上級司令部にあったのだろうが、現実と直面している前線部隊はそうは考えていなかった。

「八月二十四日ホルステン河南岸の前面でなにが待ちかまえているのか、攻撃部隊で見抜いていた将兵のうち何人かは、幻滅と当惑の複雑な気持ちを味わっていた。(中略)

少尉は第二大隊長小倉慶治少佐に何か話さねばならない気持ちにかられていた。

「大隊長殿、生意気なようですが、このままやったら全滅ですよ」と、少尉は小倉に話した。

「おれも、そう思う」と小倉は答えた。「上の方でどう考えているか、わからん」

しかしある中隊長-階級は中尉であったが-は大胆にも上級司令部を訪ねて、いったい何が行われているか知ろうとした。この中隊長が聞かされたことは、攻勢移転が強行できるということ、そしてその理由は「日本の軍人だからだ」ということであった。

かくして、八月二十四日午前も日が高くなってから、日本軍の歩兵部隊は事前の偵察や砲撃、さらには空から敵の戦力を弱めることもなしに、不得手とする作戦、すなわち白昼の正面攻撃を試みることになった。」(ノモンハン3巻P98-99)

その結果はどうだったか。

「二十五日には四個歩兵大隊を投入し、砲兵の援護射撃は前日より向上した物の、攻撃にはほとんど進捗が見られなかった。じりじりと少なくなっていく兵力をもって、同じ場所でしかも再び白昼あえて三回目の攻撃を強行するということは、日本陸軍首脳が想像力に欠け、頭の回転が悪く、同じ失敗を繰り返すくせがあるという批判通りであることを示していた。」(ノモンハン3巻P144)

この反撃が無為に終わった事につきノモンハンの著者はこう述べる。

「明らかに日本軍はソ連軍の抵抗力をおそろしく過小評価していた。攻勢移転を発動するのに四日間も空費してしまい、その間にソ連軍がどのような行動をとろうとも、気にすることはないといった態度であった。ソ連軍が油断なく気を配り、戦車、歩兵、砲兵と航空兵力を効果的に連携させていたのに対して、日本軍は連携、縦深、戦術的予備部隊や兵站支援もないまま、主としててぱっとしない兵力の」歩兵部隊を投入していた。

日本軍は兵力装備に不足をきたしているうえに、将官級の軍首脳が無神経というか、想像性に欠けていたいことは問題であった。(中略)

日本軍がその名を大いにはせた白兵戦では、敵の最後の抵抗力にとどめをさすため、できるなら払暁、薄暮あるいは夜間に敵に肉薄することが必要だ。白昼四、五キロも走って攻撃をかけるなど、1854年のクリミア戦争ならいざしらず、到底1939年の近代戦では考えられない。」(ノモンハン3巻P164-166)

この後もソ連軍は装甲部隊および空軍力をも利用した攻撃を続ける。この「空での戦い」について一点触れておきたい。歩兵部隊並びに航空参謀はこのころの空に於ける戦闘をこのように見ていた。

「歩兵第七十一連隊第三大隊の小野塚吉平大尉の回想によると、このころソ連軍の戦闘機と爆撃機は「猛威」を振るっていたという。「頭の上で、まさにサーカスを見せられている思いでした。腹は立つやら、いらいらさせられるやら」」(ノモンハン 3巻P12)

「航空参謀三好康之中佐の主張によると、二日間の攻撃作戦の終了時点ではソ連が制空権を掌握し、日本の航空出撃兵力はただ単に出撃して帰還するだけで、敵に与えたとする損害を確認するすべがなく、第一日での撃墜した機数は九十機をはるかに下回ったとしている」

(ノモンハン 3巻P59-60)

こうした状況を見れば日本軍は制空権を失っているのは事実に思える。しかしは戦闘機部隊の指揮官達はその見方に与していない。以下引用する。

「わが方が大兵力で一日四回、各一時間出撃した際は、敵は挑戦してこなかった。そのかわり、敵は爆撃機のみを捕捉し、つねにわが方の弱点をねらい、小編隊で動き、真正面からの戦闘を避けるといったように、効果的なゲリラ戦術を採っていました。我が方は(そうしたゲリラ機に対して)反撃を加えなかったが、それは飛行機の温存に努めた我が方にとり、そうした反撃は無意味であったからです。だから、わが地上部隊からすると、ソ連軍が制空権を掌握しているように見えたのかもしれないが、事実はまったくそうではありませんでした。」(ノモンハン 3巻P29)

この考え方は先ほど引用した砲兵隊の意見と相通ずる物がある。すなわち”少なくとも自分の前面では敵を撃退しているのだから負けてはいない”、あるいは”こちらのルールで相手は勝負しないから負けてはいない”という考え方だ。しかし現実に地上にいる兵士が空からの攻撃にさらされている状況でこう主張したところで何になろう。

この後ソ連軍は日本軍の包囲を完了し、分断、ここの部隊の攻撃に移る。この後小松原師団長は自ら「死に場所を求める」ための奇妙な行動をするがその点については触れない。いずれにせよソ連軍は八月三十一日に目標を達した。すなわち彼らが主張する国境線の内側から日本軍を排除したのである。

これに対し関東軍は反撃の計画を立てる。

「強力な兵力でハンダガヤ地区から攻撃する一方、主攻勢はハルハ河右岸のホルステン河北側地区で発動する。攻撃は右から左に第二、第四、第七の各紙団が並列して行う。ハルハ河左岸に向かう敵の退路を遮断し、撃滅するために第二師団(第六軍浜田参謀の言葉を借りれば「攻撃作戦にとってのカギ」)は、隣接の第四師団の一部と共同して行動し、ソ連軍の側面に回り、時期熟するとともに渡河に踏み切る。」(ノモンハン3巻P342-343)

この”計画”には次のような指摘がされている

「この単純でしかも自己過信に満ちた戦闘計画は、投入した師団の数が増えた以外には、ソ連軍の兵力がさらに少ないときに行って、失敗に終わった以前の攻撃計画と異なるものはなにひとつなかった。」(ノモンハン3巻P343)

「数量的に見ると三倍の兵力が第六軍に配備されたことになり、これは日本流の物差しからすると見事なもので、しかも投入された各師団は小松原の第二十三師団のような新設の師団ではなかった。だが実際には、ソ連軍に対して火力、特に戦車と火砲では、依然として第六軍は致命的に脆弱だった」(ノモンハン3巻P342)

「ここで、辻の前進についての楽観的な思考方法を用いたとしても、どうしたら六日目までにジューコフの率いる優勢な機械化兵団や狙撃兵団を突破できるのか、だれにもわからないことであった。それに加えて、ソ連軍による反撃とその後の追撃といった、第六軍の攻勢計画をかき乱してしまういろいろな可能性や、蒙古の長い冬に掩体壕もなければ施設もなく、広漠たる原野で戦闘が行き詰まり状態になってしまう可能性についてなんの配慮もなされていなかった。」(ノモンハン3巻P346)

簡単に言えば、師団数を増しただけで過去2ヶ月ソ連軍に対して敗退を続けたのと同じ計画を立てたのである。このような思考方法を”愚か”と批判することは簡単かもしれない。しかしここまでの記述をたどり直せば、それが日本軍に繰り返し観られた思考方法の表れであることがわかる。現実を無視した楽観的な作戦立案、敗北、現実を無視した楽観的な作戦の立案、敗北といったサイクルがノモンハン事件を通じ繰り返されていたのだった。これをどう考えればよいのだろうか。

ここで仮にこうした思考方法を「現実離れした自らの都合によい幻想の中で遊ぶ」、あるいは短くして「幸福幻想主義」と称してみよう。現実がどうであれ、敵は必ず撤退中だから追撃しなければならない。現実の敵兵力がどうであれ、無敵の日本軍が出現すれば敵は逃げ出す。かりにそれが不首尾に終わったとしても”よし、わかった”とばかり自軍兵力を追加すれば敵を撃退できると信じる。そもそも敵の兵力はどれくらいなのか、味方の行動に対し敵が何をするか、ということについては全く考慮しない。それはあたかも敵が何人いても順番に十分な時間差をもって斬りかかり”善玉”に次々と斬り殺されていくちゃんばら-幸福な幻想-を思い描いていたかのようだ。

私はこうした思考方法がたとえばノモンハン事件を通し明らかになる多くの日本軍の欠陥のもっとも根元的な物のうちの一つではないかと思う。

・日本軍は情報を軽視した なぜなら状況は常に自分の幻想通りであるからそれと食い違う「情報」を重視する必要はない。

・日本の地上軍は「日本が制空権を失った」と感じていたが日本の航空部隊はそうではないとかたくなに主張した なぜなら戦いのルール、勝ち負けを決めるのは常に日本軍だからだ。従って相手が日本軍のルールに添わないということは逃げたということ。従って日本軍は制空権を失っていない。

・日本軍は兵力を逐次投入した なぜならどれだけの兵力で十分かはつねに自分の幻想だけで決定できる事項だからだ。そして幻想に基づいた算段では兵力は十分だったのだ。

あるいはこうした愚かさ、間違った認識は日本軍の専売特許(ひょっとしてこの言葉って死語だろうか)ではなかったと言うことができるかもしれない。しかしながらこの「現実離れした幸福な幻想」には一つ大きな特徴があった。それは実に堅牢であり、多少の「刺激」では決して揺らぐことがなかった、という点である。これについてはその後の日本軍の戦い-ガダルカナルとレイテ-における思考パターンを観た後考察することにする。

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注釈