日付:2004/9/12
幸福幻想主義はなぜこれほど強固か
幻想至上主義は何故これほど堅牢だったのだろう?この問いには「幻想至上主義には自己安定を増すフィードバック機構が組み込まれている」というのが答えになるかもしれない。
後方に居て作戦を立案する人間は現実よりも幻想を重視する。その結果として作戦は失敗する。原因はなんだろう?戦略が誤っていたのか?それは定義によってあり得ない。とすれば問題があったのは幻想と現実の接点-実際に戦場で戦った兵士および下級指揮官である。ノモンハンの敗戦の後、本来責任を取るべき高級将校が本来責任を問われる謂われのない下級将校をどのように扱ったかみてみよう。
「なかでも特に悲劇的な運命をたどったのが、孤立してしまったフイ高地を守ってジューコフの作戦予定を狂わせた、寡勢八百人にも及ばない寄せ集めの捜索隊の優秀な指揮官、井置栄一中佐であった。(中略)関東軍参謀辻正信少佐は八月二十六日、関東軍司令部に帰任すると、井置が師団長あての報告でその守地を捨てたことについて謝罪の字句がなく、しかも井置捜索隊の損失は実はわずか三百人でしかなかった、という根拠薄弱な情報を提出している。(中略)
小松原は井置に責任をとって自決するようにうながした。それに対して井置はフイ高地がいわば陸の孤島であり、作戦的にみて持久可能な要点ではないと主張して、最初の間は自決を拒否していた。(中略)
その後小松原はある参謀を頑固な井置のところに行かせ、「状況を理解させ、関係軍紀を自覚させる」ことにした。(中略)
そのほか、小松原は異様な手を用いている。師団軍医部長の村上徳治大佐に井置を「説得」させたのだ。井置が村上に言われたのは、「君は脚に負傷しているが、糖尿病がひどく悪化しているから、どっちみち命は助からんぞ」ということでった。(中略)
九月十六日の夜、井置はこめかみに銃口をあて、拳銃自殺を遂げた。自決により隊長として「汚名をそそいだ」というのが、第六軍参謀浜田寿栄雄大佐の見解であった。だが、井置の死後もなお、その名を汚辱しつづけたのは、ソ連軍ならぬ日本陸軍であった。」(ノモンハン4巻P150-153)
第二十三師団長の小松原は戦闘指揮においてなんら貢献をしていない。はりきって出撃を命じた後はうろうろして文句を言っていただけである。最後には自らの死に場所を求めるために部下を無駄に殺した。かくしてソ連軍にはやられっぱなしだったが、この例に示したように部下に責任を負わせる事に関しては意欲と創意工夫を見せ、そして目的を達した。
こうした現象は次のように考えることもできる。日本軍の高級将校は現実よりも幸福な幻想を重視した。その結果としてそれを共有しない敵(=現実)相手には敗退を重ねたが、幸福な幻想が及ぶ範囲-すなわち自軍-に対しては実に強かったと。なんせ自軍の将校は、命令や無言の圧力によって免官や自決に追い込むことができるのである。敵はそれほど優しくない。日本軍の「想像を超えた」兵力と戦術で攻撃してく る。
しかしこうした現象も帝国陸軍にあっては瑣事であった。
「注目すべきは、過失があると思われる将校が師団またはそれ以上の上級司令部所属ならば、単に転属になるか、予備役に編入され、第一線の指揮官だけが自決を強要されたことである。
だが、畑俊六大将は、自分の陸相時代に陸軍省が自決を「命令したことは絶対になく、いずれにしても責任をとって自決した指揮官の数よりも戦闘中に戦死した指揮官のほうがはるかに多かった」と述べている。」
(ノモンハン4巻P159)
幸福幻想主義に染まった組織の長として、これほどふさわしい言葉があるだろうか。まあみんな神様じゃないから少しは失敗もあったけど、たいした事じゃないよ。
このように現実と幻想の接点にあった前線の将校を処罰し、幻想に基づき計画を立案した後方の軍人を優遇すること-言い換えればシステムの安定に負の影響を与 える要素を取り除き、正の要素を増やす-ことによりこうした幻想に基づくシステムは更に強固になったのではなかろうか。
さらにこうした幸福幻想主義は日本陸軍の教育、昇進システムにも影響していたのではなかろうか。これは私が自分の大変に限られた経験から考えることだが、
「組織はその組織が愛する者を出世させる」
という傾向があると想う。ここでいう「組織」とはその者より上位に位置する人間の共通認識を指している。その組織文化を共有しない者がどう評価しようが、あるいは組織の下部にあるものがどう考えるか、さらには現実がどうだったかなどは副次的な要素である。誰もが知っている通り「愛」とは合理性から遠く離れた場所に存在するものだ。幸福幻想主義に基づくことで出世した人間は、同じメンタリティを共有するものを愛した。それが端的に表れているのは辻政信の処遇であろう。ノモンハン事件発生以来、関東軍の暴走に手を焼いた大本営稲田課長は参謀の更迭を上申する。辻は終戦まで各地でそしてこいつが戦犯でなければ誰が 戦犯なのだ、というほど「活躍」し続けた。ある人はこの事象についてこう感想を述べている。
「ぼくは不思議でならないのは、元軍人であった人に聞くと「辻というのは私たちの憧れの的であった」という人が少なくないと言うことです。つまり彼はピカピカ のエリートだったわけですね。だから帝国陸軍の場合には、これはちょっと皮肉な言い方だけど、激戦をやって、たくさん味方の兵隊を殺した参謀ほど偉くなる。そういう人は武勲かくかくということで偉くなるという、奇妙な現象があるんですよ。」(ノモンハン戦 <壊滅編>P298-299 話者は五味川純平)
しかしこれは奇妙でもなんでもないと思う。これまで観てきたように日本陸軍は現実よりも常に幻想を重視した。そうした組織の中にあって現実でどれだけ敗北を重ねようと、それだけ無駄に兵を殺そうと幻想を持ち、作り出すことのできる人間が重用されるのは当然である。
またそうすることにより組織が幸福な幻想に浸る傾向は、更に強固な形で次代に受け継がれる。そして組織はより安定し、最終的に現実との乖離が組織を崩壊させるまでそうした傾向を持続させる。などと私の言葉並べるよりG.M.ワインバーグの言葉を以下に引用しよう。
「ところが人間は幻想を作り出すことができるから困るの。それを失われた現実の変わりとして作り出してしまうの。現実の変化は、たいていはゆっくりしたものよ ね。老化もそうね。ところが、もし私たちがその変化を隠すために幻想をこしらえはじめると、じき私たちは気づいてみればその幻想を維持するために全エネルギーを費やしていた、ということになるの。(中略)
で危機をいっそう悪化させるのは、われわれが現状維持のために注ぎ込むエネルギーだ、というわけね。
そのとおり、それを私の「最後の悟り」と呼ぶといいかもしれないわね。
変化を食い止めたり和らげたりしようとして幻想を作り出すと、変化はますます起こりやすく、また受け入れにくくなるものだ。」
(コンサルタントの秘密P164)
しかし皮肉な事に、幻想に関する以下の言葉も同時に事実だと思う。
「幻がなければ民は堕落する」(箴言29章18節 日本聖書協会新共同訳)
幻想が無くてもだめ、しがみついてもだめ。どうしろというのだ、といったところで私は黙ったまま次の章に移る。