日付:1998/10/16
これは大変難しい質問です。30前半のころだったら「合コン」と答えたことでしょう。実際履歴書に書くことはさすがにしませんでしたが、各社をまわったときの面接で「趣味は?」と聞かれて「合コンを狂ったようにやっております」と答えた事を覚えています。その時の様子を綴ったものが"HappyDays"シリーズなのですが。
さて34を越え、さすがに合コンの数も減ってきました。こうなると人様に大手を振って「趣味」と言えるのは友達とのRock Bandとなります。(実際最近履歴書にはそう書いてます)このバンドの名前は元は"Polypus & JMS"だったのですが、最近は「(ギターの名前)バンド」と言われることが多いです。このバンドの最初のお披露目は私の留学お祝いパーテーでしたから平成2年。そろそろ10周年ですね。人前でやる機会はそれから2次会で2回。乗馬クラブのクリスマスパーテーという名前の忘年会で一回。10年に4回人前で演奏するってのは多いのか少ないのかわかりません。でもそのたびに私はいつもとても幸せな気分になります。それに月に一度の練習は今では2世が走り回るat homeな雰囲気で私にとって大切な時間の一つです。
さてそれ以外には最近ではこのホームページの作成をあげることができるでしょう。実際私が持っている自由時間から睡眠時間をひきされば、読書とこのホームページに山のように存在している駄文の山の作成時間というのがかなりの割合をしめるはずです。もっともこの趣味は時と場合によってはあまり吹聴しない方がいいようで、場合によっては「オタク」と思われるようです。(私の母は「あんたはオタクよ」と言い切りましたが)おまけにこのホームページには会社に対する「感想」も書いてありますから、会社の人に読まれるのもありがたいことではないかもしれません。もっともそれを承知の上で書いているのですが。
こう書いてくると、20台のころの私の趣味はなんだってんでしょうね。パソコンももってなかったし、ホームページなんてものは存在しなかったし、合コンもそうやってなかったし、バンドを始めたのは26歳の終わりころだし。会社でよれよれになって寝ているばかりだったのでしょうか?父のオアシスを借りて多少文章は書いていたのですが。
私は二つのバンドに所属していた時期がありました。一つはもうすぐ10周年を迎える同期とのバンド、これでは一貫してボーカルないしはバックコーラスをやっています。バックコーラスをやるときはときどきタンバリンなどを持ったりもします。よくコンサートとかでプロのバックコーラスも持ってますよね。コンサートでは一人くらいタンバリン振り回したところで音は聞こえないと思ってやってみたのですが、結構音が響いてしまって驚いたことがあります。
この他にも一時期別のバンドでドラムスをやってました。何故ドラムをやったのか?そのバンドに後に参加することになるメンバーで合コンをやっていたときのことです。誰かが「ここにはギターがひけるやつ、ベースがひけるやつ、それに歌を歌いたいと思っている奴が居る。あとはドラムをたたけるやつが居れば、バンドができる」と言ったのです。そして私は「よし。では私がやろう」と言いました。それまでスティックを握ったことなどなかったのですが。翌日さっそく私は楽器店に行って、スティックと「初歩のドラム」なる本を買ったのです。
このバンドは結局一度だけ人前で演奏をしました。その演奏そのものは大成功だったのですが、ある理由により私はこのバンドはもう十分だと思ったのです。そしてそのバンドはそこでおしまいになりました。
さてそれ以前から続き、その後の続いているバンドのほうです。こちらでやったアーティスト名を並べてみましょう。
爆風スランプ、RC-SUCCESSION,BOOWY,Queen, Eric Clapton, Aerosmith, SPITZ, Eagles, Every Little Thing, Sting, GLAY,Doobie Brothers
ある人にこの話をしたとき「一つのバンドでですか」と言われました。いささか節操がないのでしょうか。
さて上記の名前には横文字だけど日本のバンドがまじってます。ある時期から「日本のバンドも捨てたものではない」という認識が広まったからです。しかし私は個人的にこの事に関して問題を抱えていました。日本語の歌詞は忌野の傑作を除いては私にとって軟弱すぎるのです。特にSPITZをやったときは私はひたすら発狂と戦っていました。この軟弱な歌詞を逃れるために私はわざわざCMだけで使われていた英語バージョンまでマスターしたのですが「よくない」と言われて結局人前であの軟弱な歌詞を歌わなくてはいけないはめになったのです。その後私はバックコーラスになったので、この問題はなくなったのですが。
さて普段私と接している人間は私が歌を歌うとは思わないようです。どちらかと言えば声が小さいからでしょうか?しかし私の歌い方は破壊的です。大きなハンマーをふりまわすような歌い方をします。さすがに10年もやっていると最初よりは少しましになったきもするのですが。このバンドのより詳しい歴史及びライブの模様はPolypus&JMS Live 1999/12/19をごらんください。
何故いきなり遠吠えをしたり、メールの署名に「大坪@わおーん」と書くのですか?
私と酒をのんだことがある人は、たいていの場合「かんぱーい」といってビールを飲んだ後に私が「わおーん」とほえていることに気がつくでしょう。そして酒を飲んではほえる、というのはそれからもしばらく続くのが普通です。
私が米国に幽閉されていたころ、GMの人たちと飲みに行く機会がありました。そのときも私は周りのことなど気にせずこの「わおーん」とほえていたのです。それを見ていたのが推定年齢35歳〜300歳(と私が勝手に呼んでいた)秘書の「クリスティー」(いい名前ですね)が
「あら。Goroがほえてるわ。ちょっとちょっと見てごらん。(と周りの人たちを呼ぶ)
Hey Goro, Show me your howl (ちょっと吠えてごらん)」
リクエストには応えるのが私の主義です。私は彼と彼女たちの前で酒をあおり「あおーん」と吠えたのです。
しかしながら、この遠吠えが他人から見るといかに異様であるかを認識したのもこの米国幽閉時代でした。我々は一時期「洞窟」と呼ばれるところで働いていました。大部屋を3っつくらいにしきってひじょーに暗い中で3人働いていたのです。するとときどき壁の向こうから
「Waooooon」
と吠える声がする。どこにも吠える奴の一人や二人くらいいるもんです。一番離れた位置にいる妙なエンジニアの遠吠えだったのですが。その時初めて自分以外の人間が吠えるのを聞き
「ああ。これほどまでに異様なものだったか」と認識を新たにしたのです。(かといって遠吠えが止まったわけではないのですが)
さて、この遠吠えの理由ですがこれは自分でもわかりません。条件反射みたいなもので、頭で考える前に吠えてしまっているのです。実はこれは酒を飲んだときだけ吠えるわけではなくて、普段でもときどき吠えているのです。NiftyserveのPatioという私設会議室で一緒に話していた人たちと初めてお会いしたときも私は何度も吠えていました。そのあと会議室である参加者に「五郎ちゃんが吠えていた。あれはなんなの?」と言われたときに私は以下のような文章を書いてなんとかごまかしたものです。
(引用ここから)
師匠:「よいか?遠吠えとは、まず自分が猫になりきる。しかる後に、”ごろごろ”と喉をならしたい欲望を感じた時に、素直に自分を捨てきって「わおーん」と小声で吠えるものだ。」
生徒:「・・・」
あまりのアホらしさに生徒が集まらず、講座がお流れ
(引用ここまで)
ところが私の遠吠えを指摘した女性からは追撃の質問がきました。それに対して書いたのが以下の文章です。
(引用ここから)
さてそれではMaster of 遠吠えが生徒の質問に答えます。
(以下は女性の書き込み)
>> 生徒:「師匠、質問があります。「わおーん」と小声で吠えたとき
>> その場にいた人が凍り付き
>> 冷たい空気が流れた経験はありませんか?」
師匠:「うむ。それはよい質問じゃ」(と答えたまま3分ほど沈黙)
生徒:「師匠?」(ひょっとしてこいつ3分間寝ていて何も考えていなかったのではないか?という疑問を裏に秘めて)
師匠:(生徒の無言の非難を察して多少うろたえながら)
「前に書いたの遠吠えの極意を思い出してみよう。遠吠えをするときには”自分を捨てきる”状態になることが必要となる。自分を捨てきれば自分が無く、自分が無ければ他人もない。自分と他人の区別を超越したところに遠吠えは存在しているのだよ。」
生徒:(このじじい、答えが見つからないものだから訳の分からない言葉をならべてごまかしにかかったな?という疑問を腹の中に抱えながら、一応真面目に聞いている)
師匠:(しゃべりながら自分の考えらしきものをでっちあげる)「自他を超越した境地に達すれば、”周囲の反応”などという言葉が無意味なことは明白じゃろう。周囲とは自分のことであり自分とは周囲なのである」
生徒:(このくそ野郎、話を煙に巻くつもりだな、という確信を得て、具体的な質問にはいる)「自他を超越する境地には私まだ至っておりません。例えば合コンで初対面の女の子相手に遠吠えをやると何が起こるのですか?」
師匠:(煙に巻く戦術が失敗したと悟り、内心屈辱感を覚えながら、いかにも物をわきまえぬ若者の質問にしかたなく答えるフリをする)
「ほっほっほっ。そう答えを急ぐでない。遠吠えをやる前に、普通に談笑しておけば”この人頭が。。。”とは普通思わないだろう。
また自分を捨てきって遠吠えをすれば、それが女の子の受け狙いのこそくな技でないことは相手にも伝わる。だから”うけねらいのいやな奴”とも思わないだろう。
従って大半の女の子は”この人ちょっと変わった人ね”と思いながらも、愛想笑いくらいうかべてくれるものだ」
生徒:(この野郎、逃がす物かと思いつつ)「相手が”大半の女の子”の範疇にはいらない場合は?もし相手が本当に”この人おかしいのではないか?”と思ってしまった時は?」
師匠:(だんだん土ツボにはまりつつある自分を感じながらも、師匠らしい威厳をとりつくろって)「その時こそ、合コンに呼んだ男のメンバとの日頃のつきあいが物をいうときじゃ。日頃から彼らと、脅迫、煽動、どんな手段をとってもよいから良好な関係を結んでおけば、冷たい雰囲気を察して”いやー。大坪さんって変わってるでしょ。ああやって吠えたりするけど悪気はないんですよ。ハハハッハ”とフォローをしてくれるものじゃよ。こう言われれば(本当にそうかしら?)と内心思っていたとしても、女の子もひきつった笑いくらいは浮かべてくれるじゃろう」
生徒:(”脅迫、煽動”しなければ相手と良好な関係を結べないとは、なんという奴だ、と思いながら)
「師匠は先日ペンギン村の東海OFFで昼食時にいきなり吠えたと聞いております。この状況では師匠の遠吠えや、日頃を知っている人のフォローは望めません。幸いにして参加者が皆ユーモアのセンスを持った人ばかりだからよかったものの、もし場所が凍りついたらどうするつもりだったのですか?」
(これでチェックメイトと思いながら、Followの質問)
「”自分を捨てきる”とか”猫になりきる”とかそれっぽい言葉を使ってますが、ひょっとして師匠は今まで後先考えずに遠吠えをやっていたんじゃないですか?おまけに遠吠えをやっている自分に酔ってしまって、遠吠えの結果として自分が回りにどのような影響を及ぼしたかまったく覚えていないんじゃないですか?だからこの質問に、こんなに回りくどい答え方をするんじゃないですか?」
師匠:(ふっつ。こんなことで追い込めるものか。だてに歳はとってねえーぜと思いながら。)
「君はときどき自分の理解できる範囲だけで推論を組み立てる悪癖があるようだ。(いやー。大正解だけどね)まだ修行の路は長いぞ。(にわかに時計を見て)申し訳ないが飛行機の時間が迫ってきた。また日本に戻ってきたときに君の質問に答えることにしよう」
生徒:(なんでこんなくそじじいを師匠と呼ばねばならんのか?世の中が合理的だと言った奴はいねえよな、と思いながら)「師匠。ありがたい教え有り難うございました。またの帰国をお待ちしております。」
(その時こそへこましてやるぞ、と心に誓いながら頭を下げる)
(引用ここまで)
さて、かのようになんだかんだと言われながら、私の遠吠えは続いているのです。いつかはなおるんでしょうかね。
さてこの遠吠えに触発されてかなんだか知らないのですが、メールの最後に書く「大坪@なんとか」という行も最近はほとんど「大坪@わおーん」です。とはいってもこちらは多少のバリエーションがあり、ちょっと元気のないときは「大坪@くうーん」とか、さらに元気が無いときには「大坪@めそめそ」とか「大坪@しくしく」になります。ちなみに太ったときは「大坪@ぶよぶよ」となります。いずれにしてもあまり意味がない、という点では共通しているのですが。
何故U.C.Berkeleyという名前をみると発狂するのですか?
U.C.Berkeleyとは日本語で言えばカリフォルニア大学バークレー校。英語で言えばUniversity of California at Berkeleyです。「卒業」や「いちご白書」(?)とかいう映画の舞台となったので日本でも結構おなじみの大学のようです。
さて普通はこのように呼ばれるこの大学ですが、Football(サッカーじゃありません。日本で言うとところのAmerican Footballです)の世界ではC○Lと呼ばれています。(真ん中のAは伏せ字)そして私がひょんなことから留学することになったStanfordとこのC○Lは犬猿の仲、不倶戴天の敵なのです。そう。この「不倶戴天の敵」という言葉を知ったのは、私が留学から帰ってきてからのことなのですが、「ああ。StanfordとC○Lの関係を表すのにこれほど適切な言葉があろうか」と感動したものです。空に二つの太陽なく、両雄は並び立たず、水と油は相容れず、そして天は二物を与えず(これはちょっと違うか)とにかくStanfordとC○Lが同じ天を戴くことはあり得ないのです。
何故このようにお互いを嫌っているかと言えば、まあ地理的関係においてSan Fransisco Bayをはさんで対峙していること。それに知名度、学力のレベル等々いずれも拮抗しているからに他なりません。(いずれもStanfordのほうが上なのですが)まあ普段は別にC○Lの学生がStanfordの学内を歩いていたとしても殴られることはありません(たぶん)が、年に一度この両校の間の緊張感が頂点に達する日があります。
それはFootballのシーズン最終戦の日です。相手はC○Lと決まっています。そしてこの試合こそは「それまでどのようなシーズンをすごしてこようとも、この試合に勝てばそれはGreat Year,もし負ければDown Year」というほどの重要な試合であり、The Big Gameという名前で呼ばれています。
この試合について、某NiftyserveのAmerican Footballフォーラムにポストした書き込みがありますので以下に引用します。この試合の勝者には斧(Axe)がトロフィーのように与えられます。下の文章はその由来について説明したものですが、両校のライバル意識というのがどのようなものかの説明にもなっていると思います。
(引用ここから)
ではリクエストにおこたえして。。これは私の友人がそのまた友人のAmericanから聞いた話なので、伝言ゲームみたいにところどころ間違っているかもしれませんが。。。間違いに気がついたかたのご指摘をお待ちしております。。
その昔。まだシーズン最後のStanfordとCALの対抗戦と言えばFootballではなくBaseBallであったころからStanfordとCALは仲が悪かったのです。例によってExciteする最終戦では特別な応援方法”アックスエール”というのが行われていました。(一度だけみたことがありますがそんな大したもんじゃありません。聞き取れた部分では”連中の首に斧を”とか言っているだけです。もっともなぜこのアックスエールが始まったかは知りません)
さてある年の対抗戦のこと。太古の昔から正当なStanford対CALの試合の結果は決まっていました。Stanfordの勝ちです。喜んでStanfordの連中が斧を振り回してアックスエールをやっていると、それを見たCALの連中は、それを彼らの心の平穏に対するChallengeとうけとりました。そして試合でStanfordをうちまかすことが不可能であれば物理的手段を持って、象徴たる「斧」を奪取しようとしたのです。「一時的に理性を喪失した集団」になったCALの連中はアックスエールをやっているStanfordの人間から斧を奪い取り遁走をくわだてました。そして彼らの聖地というか故郷であるCALに持ち帰ろうとしたのです。
さてStanfordはサンフランシスコベイの西側にあり、CALは対岸にあります。陸路を通らなければ彼らはいずれかの船にのらなければなりません。すばやくこのような判断に到達したStanfordの生徒(さすがにSmartですね)は全ての桟橋にいち早く見張りをたてました。このことを悟ったCALの「不法所持を正当と主張する」連中は一計を企てました。当時斧はちゃんとした斧の形をしていましたがこれでは隠しにくい。近くの肉屋にはいって斧の柄を切り落としてしまいました。(現在の斧はほとんど頭だけです)そしてここで登場する"Mysterious Lady"なる女性のスカートの中に斧を隠して、湾をわたり、まんまと「斧の不法所持」に成功したのです。(スカートのなかにあの重い斧をどうやって隠したかは定かではありません)
さて以上の経緯で判るとおり斧はStanfordの固有の所有物であり、CALに不法占拠された状態になったわけです。それから「アメリカ市民の正当な権利」を主張するStanfordの学生は何度か奪回作戦を試みました。しかしながらCALもさるもの。そういった動きを察知すると斧を金庫にしまってしまいました。そして何年か斧はCALの不法に所有するものとなったわけです。
さてここに、一つの転機が訪れます。後に"Immortal twenty one"(不死身の21人)とたたえられるようになる男たちが登場し、このままCALの勝利に終わるかと思われたAxeの歴史は大きく書き換えられることになります。
不法所持をほしいままにしているCALといえどもいつまでも斧を金庫にしまいっぱなしにはできません。ときどき持ち出すことがあります。「不死身の21人」は報道関係者になりすましそうした機会をうかがい「斧を運び出すところを取材したい」と言いました。
さて、いよいよ斧が金庫からでてきました。その時彼らはフラッシュをたくようなふりして粉かなんかをなげつけたり(このへんの手段はあまり明確でない)とにかく「正当な所持権を主張する際に許容されるあらゆる物理的手段」をもって斧を奪還しました。Stanfordに凱旋した彼らは前述の名前で呼ばれるようになり、長くその栄誉をたたえられるようになったのです。(Stanfordで買ってきたカレンダーに彼らの写真が載っていました)
そしてこの後、「斧」はThe Big Gameのトロフィーとして勝者に(50%以上の確率でStanfordですが)一年間保有されることになりました。
しかしながら話はここではおわりません。「自らの所持の不法性を認めずに、物理的手段によって斧が正当な所有者に復帰したことを快く思わない」CALの学生達は何度か彼らなりの「正当な」奪還作戦を行いました。そして不幸にして天地の道理に逆らいStanfordが負けてCALが斧を保有している場合には、Stanfordの学生は「正当な所有者が誰であるかを知らしめるために」奪還作戦を行ったのです。
Stanfordでは学生会館のロビーに斧が飾ってあります。とても頑丈なケースでおまけにガラスが割られればたちまち警報が鳴り響くであろうセンサがはってあります。さらにThe Big Gameの前の週には、「無用な混乱をさけるために」どこかに隠されてしまう念のいれようです。(ちなみに不幸にしてStanfordが負けて斧がCALにいくと、カラのケースには「斧の写真」が飾られます。幸運にして私がいたときはそういった不届きな事態はおこりませんでしたが、「写真」を眺めるのはとてつもなく惨めです)
CALではどこに飾られているか知りません。しかしこの話を私の友人に話してくれた人間はCALに「正当な所有権を主張しに」行ったことがあるのだそうです。彼が言うには「まず電気工事工のふりして下見に行った。そのときに斧を固定している(?)ボルトの形状を確認した。そのボルト用に工具を準備したが、本番のときに行ってみたらボルトがちっとやそっとでは抜けない形状にかえられていて、奪還に失敗した」のだそうですが。。。
StafordとThe Big Gameに負けた大学(CAL)の間の「斧」にまつわるくだらない話は、私の知っている限りでは以上です。。。あまりのくだらなさいにほとんど笑いを禁じ得ません。私の偏見ですが「くだらないことをやらせたらアメリカの学生は世界一」と思っておりますが。これはそれを示す事実の一つかもしれません。いずれにせよ以上の話から「斧の正当な所有者がStanfordであること。」がおわかりいただけたかとおもいます。それでなくてもStanfordがCALに負けると言うことは天地の道理に反した行為でありAbnormal であり、unusualであり、とにかく許すべき事象ではないわけです。
さてこの他に両校の中の悪さを示す事実をもう一つ。San FransiscoのPier39からは遊覧船が2系統出ています。赤と白を基調としたStanford卒業生経営の遊覧船。これが正当な遊覧船です。(赤と白はStanfordのユニフォームの色です)
しかしながらある日CALの卒業生はSan Fransisco Bayを軽やかに疾走するこの遊覧船をみて理不尽な「精神の安定に対するChallenge」を感じました。そして彼らは青と金色を基調とした"Golden Bear"号を就航させたのです。(言うまでもなくGolden BearとはCALのマスコットであり、青と金色は彼らの色です)そして波止場のプレートに以上の経緯を書いて観光客にアピールしています。プレート曰く「Bay Areaに住んでいるCALの卒業生の数とStanfordの卒業生の数を比べれば圧倒的にCALの方が多い。であればどちらが経営的に成功するか明白であろう」。。
上記経緯を知らずGolden Bear号に乗ってしまったことは一生の汚点と思っております。
(引用ここまで)
かくの通りStanfordとC○Lはお互いを憎悪する間柄なわけです。なのにどうも日本ではStanfordよりもBerkeleyのほうがとおりがよい。というわけで心穏やかでないことも多々あるのですが。この両校のライバル意識にまつわる話をしだすと長くなりますが、少しだけ以下に補足しておきます。
(全く役に立たない)The BIG GAME History..
最初のゲーム:
最初のBIG GAMEはMarch 19,1892に行われました。時のStanford ManagerはHerbert Hoover(後に第31代大統領になったお方)でした。
両チームがそろい、20,000人の観客が集まりました。さて試合開始という時に、レフェリーは両チームともFoot Ballを持ってきていないことに気がつきました。
観客の中にいたスポーツ用品店の親父がボールを取りに行っている間、試合開始は1時間遅れました。
結果は14-10でStanfordの勝ちでしたが、思えばこの最初の試合でのドタバタがその後1世紀近くに渡ってくりひろげられる両校の(どこか間抜けな)死闘を暗示していたわけです。
1982 "The Play":
あまり思い出したくない試合なので繰り返しませんが、、、例の"Axe"には過去のBIG GAMEの試合結果がはってあります。Axeがしかるべき場所にある間は、この年の試合結果はStanford 20-CAL 19となっているとだけ、書いておきます。(NCAA公認の結果はStanford 20-CAL 25です。毎回張り替えてるんだそうで)
1990(特に名前無し)
バンドの乱入で負けたThe Playの反対となったゲームです。Stanfordは残り17秒の時点で18-25で負けていたのですが、それから一気に9点をいれて試合をひっくり返して勝利。Key PlayはCALの観客のフィールドへの乱入でした。。
インターネットのおかげで、今や日本に居ながらリアルタイムでこの大切な試合の模様を聞くことも可能になりました。1996年から私が某所に書いているTHE BIG GAMEの感想は「The BIG GAMEに関する記述」を参照してください。
師匠:ここででてくる「師匠」と「弟子」とは私設会議室のなかで私が発言するときに勝手に創作していた架空の人物である。この二人の対話の別の例は「何故著者近影は選択式か」を参照のこと。本文に戻る
脅迫、煽動、どんな手段をとってもよいから:この言い回しは私のオリジナルではない。昭和史発掘(参考文献)から引用した、2.26事件の首謀者の一人磯部が獄中で書いた文章の一部。「脅迫、扇動、いかなる手段をとってもよいから軍の首脳部と離れなければよかったのだ」という後悔の言葉。本文に戻る