日付:1998/10/16
嫌いな食べ物はありますか?「ありません」の一言ではせっかくこのページを開いていただいたのに申し訳ないと思うので例によってつらつら書いてみましょう。
強いて言えば「体調が悪いときに悪い油であげられた天ぷら」だけは苦手です。一度「油に酔う」という状態になったことがあって、それからというもの、その再発を大変恐れているのです。しかし記憶をがさがさあさってみても、そうした状況に陥ったのは、その時だけだったような気がするのですが。
他の物はなんでもおいしくぱくぱく食べます。うちの父はある日サンマか鯖か鰯かとにかくそういう安くておいしい魚を食べながら
「こんなうまいものが海の中を泳いでるなんてありがたいな」
と言いました。私も全く同感であります。鰯を食べるたびに鰯を発明してくれた人に無限の感謝をささげるのです。
さて、本当の事を言えば小さい頃はいくつか苦手な食べ物がありました。小学校2年生の頃はトマトが苦手でありました。あれこれの文章を読むと当時のトマトは今のよりもずっとすっぱかったという説もあるようですが、こればかりは味わっている人間の味覚も変わっておりますから比較は難しいのです。とにかく当時私はトマトを食べるためには元の味を消し去るほどの砂糖をかけれなければならなかったのです。
ある日給食にトマトがでました。しかしかけるべき砂糖はございません。結果として私は食べられず、そしてクラスで秀才の誉れ高いキマタという男も食べられてませんでした。覚えている光景は、本来の給食時間は終わり、掃除が始まっているのにキマタとともにトマトに対峙していた姿です。その時私が作った川柳が
「天才はいつもトマトに泣かされる」
小学2年生の作品でありますから、575になっていればいいのであります。キマタはともかく、自分をこの「天才」の仲間にいれていたのかどうかは今となっては本人にもわかりません。
さて、そのときの決着がどうついたか知りません。まあ学校の事でありますからどっかで妥協がなされたのでありましょうか。
しかし私の家-大坪家のしきたりはこれほどヤワなものではありませんでした。出された物を残すと、それを食べ終わるまで次の食事を食べることができないのです。私はこのルールの為に2度ほど丸一日絶食したことがあります。
一度はうどん、もう一度はなんだかマヨネーズを使ったサラダでした(トマトはどこへいったのでしょう)とにかく。晩飯が食べられない。翌朝の朝食も食べられない。しかし私には希望がありました。そうしたしきたりも学校までは届かない。昼になれば給食を思う存分食べればよいのです。
その朝登校するとき、妙に下半身に力が入らないという状態を生まれて初めて体験いたしました。膝が笑い、上りよりもなぜか下りの階段がつらい。授業になれば先生に
「大坪君。顔色が悪いよ」
と言われます。まさか昨日の晩から食べていないとはいえませんから
「朝飯をたべてないもんで」
とかなんとか言いました。そして小学生でありました私は当時から自分の願望を現実として見てしまう人間の一人でありました。私が待ち望んでいた給食の時間はついに訪れなかったのであります。なぜならその日は土曜日でありましたから。それくらい前日に気がつけよ。
がくがくする膝をなんとか御しながら家に帰る。今にして思えばおそらくうどんは母が作り直してくれていたのでしょう。そしてさすがに一日絶食すると何でもおいしく食べられる物です。その晩にはちゃんと残した物をたいらげ、そして
「嫌いな物」
を減らしたのであります。
さて、大坪家にはかくのごとく恐ろしいルールがありますが、うちの弟は未だにカボチャだナスだは嫌いであります。なぜか?彼は末っ子だからであります。私は母のいいつけに真面目に従い、空腹に絶えていたわけですが、彼はまったく堂々とそうした言いつけなど存在しないかのように
「ぱくぱく」
となんだか食べている。あまりに堂々としているので、母も彼が本来絶食中であることを忘れてしまう。かくして彼にはまだ苦手な食べ物が残っております。
時々「好き嫌いがないと何でもおいしく食べられて得ね」というセリフを聞くことがあります。しかしながら、弟を見ておりますと彼は彼なりに楽しくあれこれ食べているよう。
「どうしてこんなおいしいものが」
と他人が思ったとしても、本人が嫌いであれば、それが存在しないも同様。どうでもいいことなのかもしれません。
さて、三つ子の魂百までともうしますし、食い物の恨みは恐ろしいとももうします。実は母がニンジンが嫌いだという事実に気がついたのは、私がだいぶ大人になってからでありました。ある日カレーを食べておりましたときのこと、ふと気がつくと母がカレーの中のニンジンをきれいによけている。私は
「お母様。私が子供の頃はあれほどまでに厳しいポリシーをもって、私を絶食させたではありませんか。それが自分はニンジンを残そうとは云々かんぬん」
ひとしきり叫びました。すると母はそれらのニンジンをまずそうに口に放り込んで。
「食べたわよ」
と開き直りました。
実は同じ頃私は「金槌」でありました。小学校2年生の頃の泳げる距離は
「50cm」
であったのです。その頃「あたしはおよげるわよ」とすいすいしていた母の泳ぎが実は
「犬かき」
であったことを知ったのもずいぶん後のことです。最近は孫達に
「あたしは泳げないわよ」
と同じく開き直っておりますが。
これは職をさがしていた時、面接でも何度か聞かれた質問です。その度に
と答えました。すると相手は大抵曖昧な反応を示す。思うにこういう答えはあまりしないものなのでしょうか。
しかし私はいつも文字通りの意味で使っていますし、この傾向は年を取るに従ってより極端になっているようです。
若い頃はそのことに気がつかず機嫌が悪いのに酒をしこたま飲んでしまいエライ目にあったものです。ベッドに入り1−2時間眠るのですが真夜中(というか明け方)目覚める。すると体の節々が痛いことに気づき、かくして再び眠ること能わず朝までどたんばたんと寝返りを打つことになります。
そういう事を何度か繰り返した後に私は一つの教訓を得ました。私のアルコールに対する耐性はその時のご機嫌にきわめて依存すると。機嫌が良いときであれば、どんなに飲んでも翌朝はご機嫌に目覚めます(「府中へ」参照)しかし若いときのように眠れず関節が痛む夜を送ることは年をとったこの身には耐え難いこと。
従って最近機嫌が悪い時-正確に言えばご機嫌で無いとき-にはほとんど飲みません。結果として会社と名が付く宴会では滅多に飲まないことになっています。酒は楽しく飲みたいものです。そしてその「楽しさ」というのはその集団の文化に依存するもの。意味の無い言葉のエンドレスな繰り返しに喜びを見いだす文化を共有できないのは私にとって必ずしも幸せなことではないようです。
しかしながらそうした現実はほんの時折ですが巡り会うことのできる「楽しい飲み会」の価値を損なうものではありません。会話がつながり、新しい物の見方、新しい意見を聞き、魂が歌い出し酒が進む。これは本当に貴重な時間です。
であるから私は今も同じ答えを繰り返しています「機嫌が良ければ飲みます」と。もっとも私のことを酒が飲めない人間であると考えている人も最近は増えているようですが。
この項の最後に詩を引用しておきましょう。
「短歌行」(「曹操」講談社学術文庫 竹田晃著より。一部のみ)
酒に対いては歌うがよし
人の生はいくばくぞ
譬うれば朝露のごと
去りゆく日々はあまりにも多し
熱き情はたかぶるままに
つらき憂いは忘れ難し
何によりてか憂いを解かん
ただ酒あるのみぞ
今これを書いている時点(2001年9月)ではこんな調子です。
朝の5時に目覚める。Niftyに接続しNHKのニュースを見て5時20分に家をでる。駅につくのが5時40分ごろ。鈍行と特急を見送り、2本目の鈍行に乗るのが5時50分。電車に座ってパソコンを広げ、メールを読み書きし、サイトに載せる文章を書く。もしくはダウンロードしたインターネット上の文章を読んでけけけと笑う。疲れているときは居眠りする。
品川に着くのが7時少し前。駅で朝飯を食べるとJRで渋谷まで。昼飯とコーヒーを買ってオフィスで働きはじめるのが7時半。
ちなみに寝るのは午後の9時半。それより遅く私に電話をかけることは危険です。なぜなら私は睡眠時間を何よりも愛しておりますから。それを理由無く奪う物を私は反射的に憎むのであります。(仕事だと最低、会議だと最悪)
かくの通りの時間帯に生きる人間でありますからして、電子メールというコミュニケーション手段が発達することなかりせば、とおの昔に一人の友人もいなくなっていたことでしょう。もっとも今でもそんなに友人が居るわけではありません。
何故このように早寝早起きになったのでしょう。学生の頃は
「朝一の講義では見かけることのない大坪」
と呼ばれていたのに。その理由については「Morning Train」をご覧ください。とはいっても読む前に書いておきますがそんなにたいした理由があるわけではありません。