日付:2002/6/16
後編
最初にはいった部屋に再び通されると検査用の下着とやらを渡される。青い色をしており、お尻に穴があいている。使い終わったらすてちゃってください、とのこと。素直に着替えるとどうにもぶらぶらする。看護婦さんはなにやらやっているからおとなしく座っている。
そのうち彼女は注射器を持ち出してきた。あら、あれをうつのかしら。胃のレントゲンを撮る前にも同じような注射をうたれるのだがあれは大変いたい。同じものであろうか。しかしここで何を言っても始まるものではない。ぼーっとしていると「失礼します」とかいって注射針がささる。やっぱり痛い。
まもなく隣の部屋から声がかかる。先生とおぼしき人がおり机の上には横文字でかかれた本が載っている。それには人間の腸の絵が色鮮やかに描かれており、いくつか質問がなされる。痔がありますか?いやーないと思ってるんですが。お腹の調子が悪いとかそういうことはありますか?いや、まあ普通だと思っているんですが。私は答えながら考える。そもそも普通って何だ。
世の中には実に規則的に毎朝(だか毎晩だか)お通じがある人というのがいるらしいのだが、私はそこまで規則的ではない。時々つまり気味になったり、それより頻繁にある、というか私を苦難に陥れるのは下痢の方だ。今やトイレの無い列車で「快速特急」とかいうと反射的に身構えるようになってしまった。閉鎖された列車という空間の中でそれが起こっても逃れるすべはない。次々と通過していく駅を眺めながら冷や汗を流すことになる。その強迫観念は年を経る毎に増大し、今や長い時間個室に閉じこめられ脱出のしようもない観覧車も
「ここでトイレに行きたくなったらどうしよう」
と私を恐怖させるものに変わってしまった。しかし頻度を冷静に測ればそんなに下痢ばかりしているわけでもなかろう。
では、ということでベッドに寝るように言われる。腸の長さは1.2mもあるんですよぉ、とまめ知識のようなことを言われるのだがはたしてなんと相づちをうったものか。左を下にし、膝を曲げ、右膝を左膝の上にするように言われる。
はて、と思っていると「ちょっとゼリーを塗りますね」と言われる。なるほど。そりゃすべらなくちゃな、と思っていると肛門の周りに激痛が走る。これは毎年やられる「前立腺触診」と同じだ。いきなりこう来たか。
最初に健康診断を受ける前この「前立腺触診」についてはいろいろ噂が飛び交っていた。いわく変わった格好をして、指をつっこまれ、
「うっ」
という感じになる。いわく隣にお姉ちゃんがたっているから恥ずかしい。しかし、と別の男が反駁する。世の中にはお金をはらって女性にそういう事をしてもらう人もいるのだそうな、と。結局のところは経験してみなければわからない。
私の場合はこうだった。ベッドの上に仰向けに寝るように言われる。そこで足をあぐらのようにして、両膝を手で支えろと言われる。言われた通りにしていると肛門に激痛が走る。まるで大根でもつっこまれているかのような(もちろんそんな目にあったことは無いが)さらにぐりぐりとやられこちらはうめき声をあげるわけにもいかない。ああ、痛い。ああ、理不尽だ。そんな思いが頭をよぎる。
そのうち「はい、いいですよ」と言われるが、肛門周辺の焼けるような痛みはそのままだ。これでどうしろというのか。するとそれまでそばに立っていた女性がなにやらを貼るか塗るかしてくれた。それとともにその痛みは嘘のように消えた。
その日会社に戻ると私はさっそく自分がされたことの実演を始め、これから健康診断を受ける若者達を脅しにかかった。さらには
「日本人男性は15才になったらすべからく前立腺触診を受診させるべきだ」
と主張したのである。私が中学生の頃だからもう20年以上前の話、ラジオである人がこう言っていた。
「男性の性に関する気づきは快さから始まる。女性は痛みから始まる。性に関する男女の問題はまずそこから始めないと」
私は男性だから女性の感じ方など一生かかっても解るまい。しかし男性にもあの理不尽な痛みをいうものを一度経験させることは間違いではなかろうと思うのだ。自分が大手術を経験した外科医はそれから患者に対して優しく接すると何かで読んだことがあるが、それと同じような効果は期待できぬものだろうか。しかしああした行為をわざわざ金を払ってしてもらう人がいるというのは(私だって形式上はそういう事なのだが)一体この世の中というのはどういう仕組みになっているのか。
かような経験を経た私は2年めの前立腺検診に悲壮な決意で望んだ。ところがこのときは実にすんなりと終わってしまった。焼け付くような痛みも何もなしである。なんだか拍子抜けした気がした。
ところが今日「ゼリーを塗ります」と言われた後に私の身に起こったことは一回目の触診と全く同じである。ああ、この大根を無理矢理つっこまれるような痛み。更に今日は優しくなにやら塗ってくれる看護婦さんもいないのである。しかしそのうちそんな肛門の痛みなどとはどうでもよくなった。
どの時点で先生があの黒くて細い管をつっこんだのかはわからない。しかしまもなく出口付近でなにやら入っていると思われる感触が伝わってくる。良いニュースとしてはそれがあまり痛い物でもないということだ。なんだか入り口でごそごそやっている。
そのうち妙な感触を覚えだした。なにやら腸の中にガスが充満しているような。先生がどういう格好をしているかわかんないけど、もしかしたら肛門の近くに顔をもっていっているかもしれない。この体勢でおならしたらきっと怒られるだろうな。そのうちそのガスが充満している感覚はあちこちで起こるようになる。あっちでぼわん、こっちでぼわん。ガスならいいけど、これがさっきトイレで出した物の残りだったらどうなるのだろう。このベッドの上はとんでもないことになってしまうのだろうか。
そんなことを考えることしばらく、私はある事実に気がついた。先生は
「あー、下剤よく効いてますねえ」
とかなんとか言いながら手元でなにやら操作しているがそこからなにやら空気が流れるしゅーしゅーという音がする。そこから察するにこれは内視鏡の差きっぽから空気を注入されているのではなかろうか。ということは触感があり、カメラが入っているということがわかるのはほんの入り口だけでカメラの先っぽははるかな位置に来ているのだろうか。などと考えているうちにだんだん腸の中がくるしくなってきた。お腹がはっている。そろそろ終わりにしてくれないだろうか。ベッドの横にあるモニターには腸の中が映っている。ちょっと黄色っぽい肌色でにょろにょろしている。見事に空になっているのは確かに下剤の効果か。などといっている場合ではない。この検査はいつまで続くのか。
そう思った時に先生が
「ちょうど半分くらいまで来ましたからね」
という。なんということだ。こんなに苦しんだのにまだ半分なのだ。そのうち思わずこぶしを握りしめて耐えるような苦痛が襲ってくる。それは痛みと言えばいいのか膨張感と言えばいいのか、とにかく苦しい。そうした痛みは全行程の中で2回か3回ほどあっただろうか。しばらくして仰向けになるように言われる。さらにお腹の中がぼよんぼよんとするこしばらく。先生はようやく
「はい。終点までたどりつきました。4分ですか。まあ普通ですね」
という。嗚呼良かった。終点ですか、では早く抜いてください。とても苦しいのです。ところであの永遠に続くと思われた苦しみの時間はたった4分だったのでしょうか。
すると彼は
「どうぞ、頭をあげて。ああ、枕をもう一つあげましょう。自分の腸の中なんてあまり見ることないでしょうから」
というわけで腸内部の観光案内を始める。ここが小腸がくついているところ。行き止まりですね。ここが盲腸で、この先に虫垂があります。最近サッカーの日本代表が虫垂炎になってますね。ここが炎症を起こすんですよ。ここにちょろっと見えるのはうんこですね。
私は人と会話したり、あるいは説明を受けるときにはなるべく
「はい、そうですか」
といったように合いの手を入れるようにしている。英語の場合だと
「ふふん ははん あは あは」
というやつだ。どっかの教室でこうしたフィードバックは会話を円滑に勧める上で重要である、と聞いたことがあるし、それがきっかけか、あるいは自分の信条の追認であったかは知らないのだが、とにかく合いの手は私の習慣となっている。
さて、この場での腸内観光ツアーについても私は合いの手を入れようとしたのである。しかしなんといっても腸の中には1.2mの内視鏡がはいり、大量のガスが充満して大変苦しい状況だ。いきおい
「はあ、なるほど、はあ」
という声にも力が入らない。それより先生、腸内の神秘については今度伺いますから、とりあえずこれをがばーっと抜いてもらえませんかねえ。そっちの端を力いっぱい引っ張ってもらって。そんな私の考えをよそに彼は快調に解説を続ける。ほら、いまここに来ました。ここから横に行きますからね、今左の脇腹の下にきました。今肝臓の下です。ほらちょっと透けて見えるでしょ。ああ、私に一体何を言えというのですか。そりゃ肝臓は大切な大切な臓器でしょうけど、それが見えることは今の私にとって何の意味ももたないのです。そろそろ直腸ですね。そういえば渡哲也がここの癌で人工肛門にしましたね。はあはあ、お願い、早く抜いてください。
そこまで黄色っぽい肌色の壁に血管が走っている光景が連続していたのだが、そこで一変した。血がにじんでいる箇所がある。そこから更に下に行くと壁が赤くなっている。これが潜血の原因であったか。彼が言うにはこれは「直腸炎」というものらしい。
しかし、とこうやってお尻から内視鏡が抜けた今となって思うのだ。私は奥から抜いてくる順番にそって腸内の光景を見たわけだが、彼は逆に入り口からつっこんでいくところを見ている。ということは私の直腸内部が真っ赤になっていることもすでに知っていたわけだ。ということは彼は私に対する見せ方を綿密に計算していたのではないだろうか。順調ですね。順調ですね。ほら、渡哲也で注意をそらしておいて、おーっとこれは意外。ほらほら驚きましたねえ。真っ赤な直腸だよ。
しかし当日はそんなことに思いをはせるような余裕はない。待ち望んでいたごとく内視鏡は体の内部から消えたのだが送り込まれた大量の空気は存在しており、私の思考の大半は腸がぱんぱんに膨らんだ絵で占められている。最初に座ったのと同じ椅子に座ると彼は途中撮影した写真をあれこれ説明してくれる。真っ赤になった直腸を指しながらなんだかごにゃごにゃ言っているのだが私の耳には届かない。とにかく検査が終わった安堵感と腸内のふくれあがった感触にとらわれているのだ。これは直腸炎としか言いようがないですね。ああ、そうですか。便に血がまじっていたり、卵の白身のようなものがついていることはないですか?と聞かれる。
私は和式と洋式とあれば洋式の便器を使う。誰とも知らぬ太股が座ったところに自分も座る、ということさえ我慢すればなんといっても腰も楽だからだ。しかし洋式便器の欠点として自分が何をしたか、の確認が難しいということがあげられる。それでなくても自分のうんこなぞあまりまじまじと見ようとは思わない。私はどうですかねえ、と答える。薬をだしておきますから毎日使って、また一月後に来てください。あ、この写真持っていっていいですよ、と言うとメモ用紙に簡単な大腸の略図を書き、1枚目はここ、2枚目はここ、と図解をしてくれる。ああ、あなたは腸を愛しているのですね。そしてそうやって説明せずにはいられないのですね。
最後に彼は「異常があるとこんなになるんですよ」と言って何枚かの写真を見せてくれる。それらは腸の中を観ることなど生まれて初めてという私でも
「こっこれは」
と絶句するようなものだ。痔瘻も最初はこんなんですけど(それだけで十分悲惨なように思えるのだが)もっとひどくなるとこんなになるんですよ(Oh my...)これが「これに比べればあなたのはなんともないでしょう」といいたいのか、単に「ほれほれ」と言いたいためかはわからない。
ようやく着替えて受付に行くと薬を渡される。これから毎日この弾丸のような座薬をおしりの穴につっこむのだ。体温で溶ける物ですから、冷たい場所に保管してくれ、と言われる。ということは冷蔵庫に入れる、ということだが冷蔵庫に肛門につっこむ物を入れていいのだろうか。しかし他に選択肢はない。
大腸は充満状態だが、小腸から上はからっぽのはずである。とにかくご飯を食べる。会社に戻るとその場にいた人間を捕まえて自分がいかにおそろしい目にあったかを10分ほど話して聞かせる。写真と腸内地図も披露する。ああ、一月後にはまた検便をして持って行かなくてはならぬのだ。来年はどうしよう。もうあんな思いはいやだ。かわりに君のを提出させてはもらえないか、と言うが相手はあいまいな笑みを浮かべたままである。
かくして私の大腸内視鏡検査は終わりとなった。(少なくとも今日の所は)一月後にどのような結果がでるかは神のみぞしるところだが、私としては他人のものを提出してでも再検査は避けたい。
しかしそういうつらい状況の中にあっても先生の「腸内ツアー解説」を聞きながら
「これで文章が一本書けるぞ」
と考えたいたのはやはり人間としてどこか間違っているのかもしれない。
注釈