題名:主張-知について

五郎の入り口に戻る

日付:2001/3/9


鰯系であることについて

先日以前の会社で一緒に働いていた友達の家に遊びに行った。大変気持ちのいい時間を過ごしたのだが、驚いたことが一つあった。

その場にいたのは男性5人(一人は友達の長男)女性4人である。友達の奥さんも含めた女性はみな美人ぞろいで、私は正直びびりまくっていた。とにかく年を経るにつれて女性に接する機会というのは減る一方であり、それに加えて美人がぞろっとならぶと五郎ちゃんとしてはしっぽを足の間に挟んで奥に引っ込みたくなるのである。女性が好きだ、美人が好きだなどと標榜しながらいざ目の前に出現されると退いてしまうわけだ。なんとなさけない、と思うかもしれないがこれを読んでいるあなただってそうじゃぁありませんか。男性で「叶姉妹っていいよなあ」と言う方だって、彼女たちが目の前にどーんと現れたら目のやり場に困り、きっと退くのでありませぬか。そうでしょう。

しかしビビリながらもちゃんと会話というのはしなくてはいけない。反社会的な人間と思われては困る。それに彼女たちは美人であることに目をつぶれば(本当はつぶりたくないのだが、目を開けるとビビってしまうからしょうがない)楽しい話し相手でもある。視神経からの信号にフィルタをかけてへれへれと奥さん及びそのお友達とお話をしていると

「大坪さんって落ち着いている」

「大坪さん見てるとなんとなく和む〜。」

「癒し系よね」

という言葉が飛び交うのである。私はなんと反応した物やら、、と途方に暮れた。後日母親にその事を話したところ

「人間外観と内面は違うからね」

とか

「あんた、”癒されたい系”じゃないの」

とかまあ鼻にもかけられない反応であったのだが、38年に少し足りないくらい生きてきてこういう反応というのは初めである。もとより「夜でも安心、人畜無害の五郎ちゃん」を標榜し呆れたように「本当に人畜無害ね」と言われたことは何度かある。しかし「人畜無害」と「癒し系」には深くて長い溝があるのでは無かろうか。ある男に「路線変更したんですか?」と言われて考えてみれば別に路線も花丸木もないのだが。

そもそも「鰯系」などという言葉はロック魂とは相容れないものだ。「鰯系ロック」なんて聞いたこと無いでしょ。となれば私はロック魂を失ってしまったのだろうか。忌野の歌をすて、これからは鰯系ミュージシャンとして、一人で楽器を演奏し多重録音でCDを造るようになるのか。あるいは

「うーららーうちゅうーうのかぜにのるー」

などと人前で臆面もなく語るがごとく歌うようになるのか。いやそんなことはあるまい。古の隈取りしっぽ有りバンド、KISSのDetroit 花丸木という曲を「これはなかなかいいぞ」とバンドで提案してるし、それにそれに日本印度化計画のどこが鰯系というのか、そりゃRobinsonなど人前で歌ったけど、あれは僕の趣味じゃないもん。

とすればこれはいかなる事か、としばらくもんもんと考えていたのだが、ある日以下に引用する文章を読み、目から鱗がごっそりと落ちた。というか少なくとも落ちた気がした。 

HAL伝説 早川書房より、 ロジャー・C・シャンク Northwestern University、Computer Science 教授

「2001年宇宙の旅」のHALにおいて仮定されていた知能のモデルというのは、AIのモデルとしてまちがっているばかりか、人間知能のモデルとしてもまちがっていた。

人間の会話は、けっして相手のいったことすべてを理解しているわけではない。そもそもそこまで耳を貸していないのだ。相手の言葉などおざなりに聞くだけで、会話のおもな目的は、自分のいいたいことを相手におしつけることだ。たいていの人にとって会話とは、自分についてのお気に入りの話題を話し、相手の好評を得るためのものなのだ。

人間は、自分の話したいことにすこしでも関係ある部分を探し出す程度にしか、相手の話を聞いていない。

(中略)

人々の話の多くは繰り返しであり、人間はいつも聞かせたいと思っているお気に入りの話の貯蔵庫であり、他人からの入力はおもにそれらの話を刺激して表に出してくるだけの役割しかはたさない、というわけだ。

何故これが「大坪君鰯系の謎」をとく鍵になるのか。

私は合コンを狂ったようにやっていたころから「会話はキャッチボールのようなものでありたい」と考え、「自分の言いたいことを相手の反応にかまわず投げ込む」態度になんとなく嫌悪感を覚えていた。しかしそれと同時に

90%の場合、相手はあなたの話を聞いていない

という現実にも直面していたのだ。この願望と現実のギャップはどうしたことか。

そして私はこのNorthwesternの教授によって今目を開かれたのである。正しかったのは現状認識の方で、私の願望は根本的に誤っていた。会話の基本はキャッチボールでなく、投げ込みなのである。みな投げ込みたいボールをたくさん抱えてうずうずしている。しかし何かきっかけがほしい。そこに相手がひょろひょろの球を放ってくる。それは心なしかカーブしたようだ。あなたはそれを受け取り、こう自問自答する。

「ああ。なんと情けないカーブであることか。彼はこんなカーブが世間で通用すると思っているのだろうか。無知はこれを罰すとは法律の規定であったか。とにかく私には彼の無知をただす義務がある。神よ、私は今貴方の言葉を聞いたような気がします。彼に本当のカーブを教えてやれと。それが私が彼にできる最善の事であると。今私はあなたの御心を実現すべく、全力を尽くす覚悟です。」

もちろん人間に神の言葉など聞こえるはずがない。いくら神様たってカーブごときでいちいち天啓を下していては忙しくてしょうがなかろう。しかしあなたは今や神のご加護を手に入れたのである。何を迷うことがあろう。所信に向かって邁進するのだ。かくしてあなたは狂ったようにカーブを投げ込む。`

もちろんあなたは相手が最初に投げたのはカーブではなく、唯のへろへろ玉だったなんてことは知らないし、知ろうともしない。相手の呆れた顔は貴方には「あまりのすごいカーブに口も利けない状態」と映る。みろ、奴はこんなに驚いている。どりゃどりゃ。

かくのとおり、大抵の人間はボールを山ほど抱え、どこかにこれを投げつけてやる相手がいないか、と機会をうかがっているのではなかろうか。下手にへろへろ玉など投げると、相手はそれをほんの小手先で受け止め、自分が投げたい球を猛然と投げ込むのだ。

 

さて、私にこの数年で起こった一番大きな変化、といえばWebサイトを造るようになったことである。私はこの変化によって、そうした「おれの球を観ろ」の呪縛から解き放たれる事になったのだ。自分がしゃべりたくてたまらない話題が目の前でふーらふらとしているとしよう。そこで肩をいからせ、鼻息も荒く「それについてはね」としゃべり出すことはもうしない。サイトに書いたからだ。読みたい人は読むだろうし、誰も読まなくてもとりあえず気にしない。

それだけではない。今の私はむしろどんどん話を聞かせてほしいとさえ思っているのだ。サイトのネタにするからである。ふーん。そうかー。そんなことがあったのか。いやあ馬鹿馬鹿しいねえ。(ではさっそく明日の書庫日記に書くことにしよう)

先ほどのたとえで行こう。投げたい球をかかえてうずうずしている人の中に、キャッチャーマスクをつけ、自分が投げたいボールを持たずに、ぶらぶらと歩いている人間がいる。彼は自分から決して球を投げようとしない。そして静かに他人の投げる球を受け続ける。これは投げ込みまるけ(”だらけ”の名古屋弁)の世の中にあってまさに

「鰯系」

と呼ぶにふさわしい人物ではあるまいか。

しかしこの図柄には隠し球がある。キャッチャーマスクをかぶった男も家に帰るとマスクを取り、誰が向こうにいるのかわからない暗闇に向かって、一人球を投げつけるのだ。ごくまれに返球があるだけで、誰が受け取っているのか、何人が受け取っているのかもわからない。しかし彼はそうした暗闇相手の投げ込みで満足し、現実世界で人と相対する時には、受け取り専門のような顔をしている。あるいは彼は本など読まなくても知っていたのかもしれない。誰も他人の球などうけたいと思っては居ないということを。

ふと考えるとこれが果たして鰯と呼ばれるに値する行動なのかどうか大変疑問になってくる。人の話をにこにこして聞いていて、自分の言葉を全く違う方向にぶつける、というのはちょっとアンフェアではなかろうか。まあとにかくそんなことは気にしない。なるほど。かくのごとくして私は「鰯系」と呼ばれるにいたったのか。納得納得。

 

ちょっとまて。そんなに簡単に納得して良いのか。これはどう考えてもむちゃくちゃな理屈ではないか。なのにこの内にわき上がる安心感はなんだ。をを。もしかするとこの安心感というのは、というわけでこの文章に落ちも付かないうちに次号へと話は続くのであった。 

 

追記:ちなみにこの文章は全くのでたらめである。おそらく本当と思われる理由については、2001年3月22日の書庫日記参照のこと。

 

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注釈

鰯系:この言葉に関しては「それだけは聞かんとってくれ:第327回 人類皆鰯」を参照のこと。本文に戻る

サイトに書いたからだ:それどころか相手に質問されたことに対して「いや。それはサイトに書いたから」とわけのわからない返答をすることもあるのだが。本文に戻る