題名:主張-知について

五郎の入り口に戻る

日付:2001/2/11


理由を我らに

ちなみにこの話は連作である。前編は「鰯系であることについて」お暇な方はそこから読んでね。要約すると

「生まれて初めて鰯系と言われた私はその謎を解き明かした(と思った)瞬間ある疑問に到達したのであった」

ガリアはそのすべてをふくめて、三つに分かれる。それとは何の関係もないが私の姉には3人の子供が居る。一番下の子は長男であるところの太一君で、彼は大変なおしゃべり好きである。そしてわけのわからない理屈をこねては厳しい姉たちにその理屈っぽさを糾弾されている。一応彼にも自覚はあるようで、わけのわからない理屈を述べた後に

「こういう事いうからお姉ちゃんたちに言われちゃうんだな」

とまた理屈をつけて一人で納得しているそうなのだが。 

しかしながらそうしたわけのわからない理由付けをするのは別に太一君に限ったことではない。たとえば日本には血液型性格診断というものが存在している。合コンで話がはずまない時の恰好の話題であるあからしてかなり長い間つきあっているのだが、未だに何型がどういう性格なのか全く覚えていない。しかし私がO型と答えたときに

「やっぱり。そうだと思ったのよ」

という相手の幸せな顔は知っている。あなた。数十分前に初めてお会いしたわけございますが、私の何を知っているのでございますか?などと聞いてはいけない。ここは合コンなのだ。そして相手は幸せそうな顔をしている。

「いやー。わかりやすい性格だからね。はははは」

と楽しく話をつなごう。あるいは相手が

「あたしB型なんだけどB型とO型って相性悪いのね」

と言ったら

「いや、実は僕A型なんだよ」

と臨機応変に血液型を切り替えよう。いいですか?太一君。君が真実と理屈をこよなく愛していることは知っている。それは尊敬すべき資質だが、すべからず物事には時と場合というものがあることを知らねばならない。大きくなっても合コンで理屈を振り回してはいけませんよ。君が嫌われるだけではなく、場が沈んでしまうからね。

いやこれはここでの主題ではない。血液型と性格の間になんの関係もないことは繰り返し繰り返し説明されているのにこうした血液型性格診断が絶滅することはない。ある本には

「西洋に存在している星占いと比較して血液型占いが日本でもてはやされるのは、星座が12あるのに比べ、血液型は4つしか無く、簡潔さを好む日本人の気質にあっているからだ」

とこれまたそれ自体が疑似科学のような主張がなされているのだが、私にはこの文を書き終えた時の筆者の得意の表情が目に浮かぶようである。彼は日本で血液型性格診断がはやる理由について、すくなくとも彼自身は納得させることができたのだ。血液型性格診断を好む人や、この筆者の姿を考え合わせるとき、そこから本当に学ぶことができるのはなんだろうか。

我々は理由が大好き

このことではなかろうか。

 

人間は感情の動物であるとよく言われる。駅で勧誘をやっている宗教のお姉さんにそういったら呆れた顔をして立ち去られてしまったが、私はその意見に賛成だし、年を取るにつれてその確信は深まるばかりである。しかしながらそうした現実の姿に対して不満を抱く、というのも人間の遺伝子のどこかに刷り込まれているに違いないのだ。我々は感情のままに行動しているのではなく、それにはすべからく理由があるのだ、と思いたがるのである。それが仮にどんな貧弱ででたらめな理由であろうとも我々は理由があることによって限りない安心感を得るのである。そうかー。大坪さんってO型なんだー。やっぱりねぇ。

膨大な実験結果によって支持されている相対性理論を「間違っている」と断言する疑似科学が、世にはびこるのは何故か。ありとあらゆる合理的な反論がなされているというのにだ。私は別の文章で疑似科学を作り上げる人間は

「権威のある理論を攻撃することにより、己の尊厳を保つ」

衝動に突き動かされているのではないか、と書いた。しかしそうした人たちにより作り上げられた疑似科学を好み信奉する人がいるのは何故だろうか。それは我々が渇望している物事の背後に存在している理由を、疑似科学がわかりやすく与えてくれるからではないのか。

いや、ここで私は科学的な物の見方を尊重する物として合コンでは決してやってはいけないような回りくどい慎重な言い回しをしなくてはいけない。よくよく考えれば疑似科学の主張というのは大抵の場合わかりやすくはない。正直なところ私には何を言っているのかさっぱりわからないのだ。しかし少なくともそれは言葉で記述されており、複雑怪奇に曲がった記号をもって記述されてはいない。何故リンゴは落ちるのか?それは

「地球の重力によって時空が湾曲する。リンゴはその時空中で測地線をたどっているにすぎない。時空の湾曲は重力方程式で与えられる。」

などと言われるよりは

エーテルの圧力によるものです。ほら。あなたも目をとじれば上から下に向かうエーテルの流れを感じることができるでしょう」

と言われた方がわかりやすくないですか。そうかー。エーテルだったんだ。そうだと思ったんだよ。うん。目を閉じればエーテルの流れがわかるよ。なるほどね。

ちょっとまて、そんなんで納得していいのか、と言う言葉は届かない。だって私が渇望していた理由は得られたんだもん。それで何の問題があるというの。かくのごとく我々は理由に飢えている。理由は我々の心に平穏をもたらすのだ。

しかし理由がつくことによる心の平安に酔いしれていてはいけない。それは大間違いであり、気がつくべき異常を覆い隠してしまうかもしれないのだ。ある本にはこんなことが書いてある。

誰のためのデザイン? D.A.ノーマン著 野島久雄訳

スリーマイルの原子力発電所では、操作員は、バルブを閉じるためのボタンを押した。(中略)操作員は確かにバルブにつながるパイプの温度を見ていて、それは、その閉じられているはずのバルブから水がまだ流れ出ていることを示していた。

ところが、なんと彼らはそのバルブには漏れ穴があることも知っていたので、そこからの漏れで温度の説明はできてしまったのだ。

(中略)

ほとんどの場合には、当事者たちはその問題の存在には気づいているのに、それに対しての論理的な説明をつくりあげてしまう。そんなことをしさせしなければ、いつもとは違うと気づくような場合でも、大丈夫だろうと納得してしまっているのである。」

かくの通り、なるほど、それはちゃんと理屈が通っていると安心してはいけない。あやまった理由づけは原発をふっとばすかもしれないのだ。かくのごとく考えてくると

「合理的な理由。判断」

というのははなはだあてにならない、と思えてくる。逆に後で結果を見てからしか解らないことだが

「この○○はなんて○○なことを言い張っているのか」

という判断が大正解というのもよくある話で。こう書いてくるとこのサイトのあちこちで似非理屈などを振り回しご機嫌になっている私はどうすればよいのか。この文章それ自体が既に無意味な理由づけではないのか。などと根本からわき上がる疑問に加え、さらに自分の首をしめるような内容を先の本から引用しよう。

「心理学者であるバルーク・フィッシュホフは、事実が起こった後では明白で予想可能に見えるが、それ以前にはまったく予測不可能であるようなできごとに対するあと知恵の説明についての研究を行った。

フィッシュホフはさまざまな状況を提示して、被験者にそこで何が起こるかを予測させた。彼らの予測が正答と一致したのは偶然程度の確率でだった。

次に、他の被験者たちを対象とし、同じ状況を今度は実際に起こった結果の記述とともに提示した。そして、その結果がどれくらいありそうなことだったかを判断させた。すると、実際に起こった結果を知っているときにはそれがもっとも起こりそうだと判断され、他のことは起こりそうもないとされた。

実際の結果がどうだったかをしらない時には、それぞれの選択肢のもっともらしさは、まったくこれと異なるように判断されていたのである。ことが起きてしまった後から振り返れば、いったい何があたりまえのことなのかを判断するのはずっと容易なのである。」

私が何型かあてることはできなくても、O型と聞いて「やっぱりねー」というのは簡単ということか。つまるところ将来に関してあれこれ思い悩み、理屈などこねくり回したところで偶然の神様には勝てないのである。我々に可能なのは後から

「そうか。やっぱりそうだと思ったんだよ」

としたり顔で理屈を述べることだけなのであろうか。ああ。太一君。理屈をこよなく愛している君もいつかこうした現実とつきあたることになるのだろうか。

と妙に静かになったところで次号に続くのであった。

 

前を読む | 次を読む


注釈

ガリア:カエサル著「ガリア戦記」の冒頭の句である。ここでは「ローマ人の物語」(.参考文献) からとったから塩野七生訳である。 本文に戻る

 

何故だろう:このことに関する記述として、私が愛する「それはだけは聞かんとってくれ」の「ザ・心理ゲーム」を参照していたくのもいいかもしれない。本文に戻る

 

エーテルの圧力:疑似科学界(そんなものあるのか)では有名な「コンノ・ケンイチ」氏の唱える内容である。詳細は「疑似科学」を参照のこと。本文に戻る

 

あやまった理由づけ:私自身で言えばこんな例を思いつく。

○○重工の航空宇宙部門がこよなく愛する故障探求方法にFault Tree Analysisというのがある。起こったトラブルはこれ。このトラブルが起こるとすれば、あれがいかれたか、これがふっとんだか、それが壊れたせい。あれがいかれたとすれば、それは、、、というようにどんどん

「そもそも何が起こったのか」

を木のようなチャートを書いて網羅するやり方である。この方法には客先に対して大変説明がやりやすい、という利点がある。勘と本能の赴くままに「これが原因に違いない」といきあたりばったり対処しているわけではありません。ほれこの立派なチャートに示される通り、ちゃんと「体系的」に原因を探求しております、と言えるわけだ。

もっともチャートにでてきた全ての「考えられる原因」にあたるわけではない。一番「もっともらしい」ものからつぶしていくことになり、その「もっともらしい」というのは所詮勘と本能の赴くままに決めているにすぎない。

私は何度かこのFault Tree Analysisをやったことがある。実を言えば、私はこのチャートを造るのが大変得意なのだ。たちまちのうちに10指に余る原因を「合理的」に列挙し、その相互関係を描き出す。しかし

「(本人が合理的と思っている理由を並べたあげく)原因の本命はこれ」

と考えると100%(当社実績値)間違えるのだ。それどころか「これの可能性は最も少ない」と思ったものが大抵の場合真の故障原因なのである。本文に戻る