題名:主張-知について

五郎の入り口に戻る

日付:2001/3/3


筋の通った話

なんだかわからないうちに、3部目になってしまった。前作

「理由は我々の心に限りない平穏をもたらす」

ということに気がついたところでおしまい。さて、いきなり話は変わる。今年の春、姉の長女であるところのさとちゃんは中学校に入学する。早いものだ。ついこないだ実家の床をはいはいで動き回っていたと思うのに。こちらは彼女のそういう姿ばかり覚えているが本人はそんなこと全く覚えていない。

彼女達と彼が小さいときから、姉はよくその様子を葉書に書いて送ってきた。その中にこういうのがあった。

さとはみい(2番目の娘)をつかまえて、なんだかわけのわからないことをすごく感情を込めて延々と話しています。みいは適当にうなずいてみたり、さとが「ねー」というと、そこだけ合わせて「ねー」といったりしています。女同士の会話なんて一生こんなものかもしれません。

幸か不幸か私は男性であるし、女性同士の会話を盗み聞きなどしていると間違いなく世間から糾弾されるので、女性同士がどのようなことをしゃべっているか知らないのである。しかし一つだけ確かなのは

「女性同士に限らず会話というものはだいたいそうしたものだ」

ということなのだ。オフタイムの気軽な会話は言うに及ばず、業務を進めるべき、仕事での会話においてもそれは真実である。嘘だとおもうなら明日会社に行ったとき数えてごらんなさい。わけのわからない言葉の応酬と、そうでないものといくつくらいかを。

ところが人間の適応能力というのは大したもので、意味をなさない会話であっても「だいたいこういうことよね」という事でなんとなく物事を進めていってしまう。ところがNTTソフトウェアのような組織でやむごとなき地位にまで昇る人となるとひと味ちがう。彼らの発する言葉に意味がないことおそらく人並み以上であろう。しかしそこをつっこまれてもその無意味さ他人のせいにする技能を身につけている。たとえばこうだ。

NTTソフトの取締役:「(米国の会社から提示された価格表を手にしながら)君はこの価格をどう思うかね」

ヒラ:「私は適当なものと思います。なぜならば(以下事実に基づいて理由を述べる)」

取締役:「僕は高いと思う。相手にもそう言った」

ヒラ:「何故高いと思われるのでしょうか。高いとすれば、どれくらいが適正価格とお考えでしょうか」

取締役:「それを考えるのが君の仕事だ」

何の考えもなく発した意味不明の言葉であっても「それを考えるのが君の仕事だ」で万事OK.意味が通らないとすれば、それは部下が自分の仕事をしていないせいなのだ。ああ。こんな無能な部下を使ってすばらしい仕事をするとはなんて自分は偉大なのだろう。

NTTGrでは取締役研修で教えられて居るであろうこの言葉はもっと広く使われるべきと思う。たとえばこうだ。

「あなた。あたしと仕事とどっちが大切なの」

「そんなの比べられるもんじゃないだろう」

ああ。駄目。全然駄目。あなたの言っていることが真実だろうがなんだろうが、そんなことは関係ない。会話は、とくに男女間の修羅場の会話は理を越えたところに存在しているのに理をふりかざしてどうする。今こそ研修の成果を生かすときだ。

「あなた。あたしと仕事とどっちが大切なの」

「それを考えるのが君の仕事だ」

ああ、なんて見事な切り返し。NTT様ありがとう。さらにはこんなのはどうだ。

「全面降伏YesかNoか」

「それを考えるのが君の仕事だ」

パーシバルも山下にこういってやれば、別の形で歴史に名をとどめたものを。

 

さて、こうしたわけのわからない現実の会話に思いを馳せるとき、私は映画、小説、その他もろもろの中に登場する会話に強烈な違和感を感じる。なぜならそれらはあまりにも論理的につながりすぎているからだ。

たとえばある漫画にこういう会話がある(一部編集)

「是非ヒット曲をつくるコツなども教えていただきたいですな」

「そんなものがあれば苦労はしません」

「それはお厳しい。さすがこの道ナン十年の業界人ですな」

(会話が終わり車の中で)

「失礼な言い方ですが、ちょっと変な感じですね」

「私も今日初めて会った人だからよく知らないが、少し見当はずれのところがあるな。。」

 

「見当はずれな会話」でこれである。ちゃんと意味は通じて居るではないか。現実世界の「見当はずれな会話」はこんなんものではない。

「そんなものがあれば苦労はしません」

「この前TVでドクター中松が”ヒット曲を作る方法”を発明したといってましたよ。あれなど要注意ですな。」

ええい。ぬるいぬるい。これでもまだ「見当はずれな会話と呼ぶには筋が通りすぎている。

「そんなものがあれば苦労はしません」

「えっつそうなんですか。私はMDジャケットの包装が問題だといつも思って居るんですが。Flower Powerなんかいいと思うのですが。やっぱりiMacですよ。そういえばこの前Steve Jobsがスーツ着てでてきたのには驚きましたね。」

現実の会話は大抵こんなものであり「ちゃんと筋が通っている会話」には滅多にお目にかからないと言っても過言ではない。なのに何故人間はそのような現実から乖離した会話を作り上げるのか。

会話が美しくつながるということは、理由と原因がはっきりするということでもある。あなたがこういう。Therefore私はこういう。Thenあなたがこういう。以下同文である。ああ、なんて合理的。うっとり。人間はつまるところ感情の動物であるのだが、そこに安住しているわけではない。合理的でありたい、といつも願望するのだ。かくして人が「人工的に」作り上げた会話は見事なまでに合理的で美しい。

しかし世の中はそう簡単にはいかない。その我々が渇望する「感情に流されず合理性、理性によって支配された会話」が実現されたとしよう。しかしそれは決して幸せをもたらさないのだ。以下の例を読んでいただきたい。

HAL伝説 13章 HALはデジタルの涙を流すか ロザリンド・W・ピカード

「一見したところ、エリオットは「スタートレック」のミスター・スポックのように見える。-感情を顔に出さず、並外れて理性的なのだ。だとすると、エリオットは理性的に判断するのが得意だと思うのが当然だろう。ところが、架空の半人類スポックと違って、エリオットの感情の欠如は彼の意思決定能力をひどく損ないビジネスにも仕事にも悲劇的結果をもたらしている。

エリオットは、知能指数も認識能力も、標準もしくは平均以上だが、人といつどこで会うかを決めるというような単純な判断を迫られると、「ふむ、この時間がいいかもしれない」とか「近くへいく用事があるかもしれないから、この時間のほうがよさそうだ」などと際限もなく合理的な検討を続けてやめられなくなってしまう。」

感情を持たず、全てを合理的に判断する者は完璧な理屈は構成できても判断ができないのである。判断をするためには「うららー」が必要不可欠、というよりは、本当のところは

「うららー。これやー」

といって判断し、後で

「こうだと思うよ。だってあれがこうでそれがこうだから。。」

とかなんとか理屈をこじつけて居るだけなのではなかろうか。

と書いたところで、私の脳裏に次に書きたいトピックがぽんとひらめく。というわけで私は感情の赴くままこの文章をお終いにして、理屈をこじつけることもせず次に行ってしまうのであった。うららー。

 

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注釈