日付:2001/7/8
カクテルというほどのものでなくても、ある飲料と別の飲料を混ぜ合わせる、ということは良く行われる。なんとかチューハイというのはだいたいその類のものだ。ウーロン茶とチューハイでウーロンハイ。カルピスとチューハイでカルピスハイ。コークハイなる飲み物はコーラとチューハイではなく、コーラとウィスキーだったような気がするが。さて、今をさることを10年あまり前、私は米国である会議に出席していた。飛び交っている言葉はすべて英語だから何をいっているかさっぱりわからない。一応まじめな顔をして座ってはいるのだが、心底退屈だ。となるとあれこれ妙な事を始める。
米国の会社で行われる会議であるので、会議室の隅にはクッキーやら、コーヒーやら炭酸飲料やらが並んでいる。私は暇にあかせて欲望の赴くままにそれらを食ったり飲んだりしてみる。確かにおいしい。しかしそんなことばかりやっているからそろそろ腹の中もがぼがぼになってしまった。
相変わらず何を言っているかさっぱりわからない。しかし暇だしな、と思い、またまたそれらがおいてあるテーブルの方に向かう。コークを手に取った私はふと考えた。このコークとポットにつまっているコーヒーを混ぜたらいかような味になるのであろうか、と。
思いついたらさっそく実行である。2種類の液体をまぜながら私は結構ご機嫌であった。これは結構いけるかもしれない。確か紅茶に砂糖をいれるかわりにジャムを入れるなんてのもあったはずだ。コーヒーは苦いから砂糖をいれたりする。その砂糖を入れるかわりにコーラを入れるというのは結構いけるのではないか。そうだそうだ。きっとこれは良い考えに違いない。思えば古来あれこれの調理法だのカクテルだのはこうした何気ない思いつきとチャンレンジ心によって開拓されてきたのだろう。そしてこの私の新しい発明は
「これは退屈な会議の間に発明された」
というエピソードと共に後世に長く語り継がれることになるのだ。コーヒーのコーラ割などという俗な名前はこの偉大な飲み物にふさわしくない。Boring Meeting Drinkの略でBMDなどというのはどうだろう。たまたまその時出席していた会議がBallistic Missile Defense(弾道弾防衛)などという話題に関する物であった。おおここちらもBMDではないか。これぞこの偉大な飲料の名前としてふさわしい。
席に戻る間私は自分が偉大な発明を成し遂げたという高揚した感情にひたっていた。頭の中に孫子の代に語り継がれるべき伝説を思い浮かべながらその
「BMD」
を飲んだのである。
未だに私はその味を形容する言葉を知らない。なぜならほとんど飲むことができなかったから。形容はできないが、うまいか、まずいか、といわれれば躊躇なく
「めちゃくちゃまずい」
と答える。いかなる作用かしらないが、その味はおそるべきもので、どうしてももう一度口を付ける気がおこらない。
しかしカップの中にはその茶褐色の液体がなみなみとつがれたままである。私はそれを眺めしばらく沈思黙考した。食べ物をそまつにしてはいけない、というのはおそらく多くの日本人の心の底にしみついている教えではなかろうか。そしてここに存在している液体はそれぞれ単独では人間が金を払ってでも飲もうかというものなのである。従ってそれを無闇にすてるとは
「バチ当たり」
と言われても文句が言えないのではないだろうか。
そう思い私は厳粛な面もちでカップに口を付けた。そしてがんばって飲み込もうとしたが、その味たるや私の「バチ」に対する恐れを吹き飛ばす程まずい。私は素直に白旗をあげて流しにカップをもっていって中身をあけた。
それから10年あまりが経過し、未だに本来人間が食する物であれほどまずい物を口にしたことがない。思えば革新がそう簡単に起こるはずはないのだ。新たなチャレンジのほとんどすべては失敗に終わり、ごくまれに何かの間違いで成功したものが
「果敢なチャンレンジ」
として宣伝されるだけなのだ。そうだそうだー。偶然だけが勝者を選ぶ事が出来、勝者だけが
「成功は偶然の産物ではなく、私の勤勉と英知と熱意によるもの」
と見当はずれの理由を蕩々と述べる事を許される。そして偶然が同じくらいの気まぐれでその勝者を見放す時は必ずやってくる。しかしその時にあっても「勝者」がすべてが偶然の所業だと理解する事はない。そうだそうだ。そうに決まって居るんだー。うんがー。がおーん。ばかやろー。なにが弾道弾防衛だー。親愛なる金正日が猫柳だー。ふんがー。
人間がふとしたことに対し必要以上に攻撃的になる場合、まず疑うべきは
「この男は自尊心に対して何かの危機感を感じているのではなかろうか」
ということであります。自らを尊いと思う気持ちに揺るぎが無ければその相手に対しただ微笑みを返すことができるはず。あるいは尊いという事を感じることもない人間でありますれば同じく微笑みを浮かべて暮らすことができるでしょう。
かくのごとく考えますと数行上に置いて著しく文体が乱れている事についての興味深い考察が得られるのであります。すなわちたかだがコーヒーのコーラ割がまずかったこと位であれほど取り乱すとはこれは尋常な事ではない。彼はあるいは自分が偉大な発明を成し遂げたという妄想に酔ったのかもしれない。しかしそれが現実によりうち砕かれたとき、彼は必要以上に取り乱し、かつその狼狽は「成功者」へのねたみに繋がっているのであります。かくのごとく考えるとき彼は「成功」という言葉に対して異様に神経質になるだけの理由があるのではなかろうか、と考えるのは自然なことであります。また裏を返しますれば彼は何かの「失敗」という言葉に怯えているのでは無かろうかと。
しかしながらこれではまだどの原因を特定するには至りません。すなわち彼の人生にはおそらく大小さまざまの失敗が存在したでありましょう。ではそのうちどの失敗が彼をしてこれほどまでに取り乱させ、逆上させたのか。
ここで我々はもう一つの要素について思いを巡らせる必要があります。すなわち今この文がどこに書かれているかと言えば個人のサイト、より正確に申し上げるならば彼が作成しておりますところの「大坪家の書庫」というサイトであります。そして「”大坪家の書庫”というサイト」「失敗」この二つのキーワードを並べます-あるいはこの雑文の題名に敬意を表し「混ぜる」と言いましょうか-とき我々は何を観れば良いのか。
いや、おそらく私はここで筆を置くというかキーボードより手を離すべきでありましょう。人間に大事なもの、それは「思いやり」でございます。これ以上探求を進めてたどり着く物があったとしても、それが何になるというのでしょう。今は何かに逆上している彼を静かに見つめ、それをそのままのものとし、混沌とした形でこの文を終えることにいたしたいと思います。
というかなんというか。
文体も内容も違う二つの文章を混ぜようとして収集がつかなくなりました。私が愛するQueenのBhemian Rhapsodyは二つだか三つだかの曲を混ぜ合わせたものと聞いたことがあります。しかしそのような技はやはり彼らのような偉大な才能のみに可能なこと。私の様な者はおとなしくモノトーンの文章を書くべきなのでしょう。それであってすらおそらくは面白くはないのでしょう。そうです。解っているのです。
ぱたん
注釈