題名:主張

五郎の入り口に戻る

日付:2000/10/23


「秋の夜長に」その2    (その1へ)   (注:この話はフィクションです)

秋の夜は長い。それはわかっている。日が昇るのは遅く、沈むの早い。そして今この場所は沈んだきり浮上する気配をみせていない。物理的に長いであろう秋の夜はことさら長く思える。

 

視線を落とし時計を見る。まだ1時間しか経過していない。知っている、そんなことは。過去数分の間にもう何度時計を観たかしれないが、針は頑として進むのを拒否している。

私はこの場所を予約するとき

「では男女3名づつの6名で2時間でお願いします」

と言った。今日我々が席に着くと最初に店の人がきて「今日は2時間でよろしかったですね」と確認した。私は「はい」と答えた。

本当の事を言えば、その時既に「2時間」で予約したことを後悔していたのだ。

 

1時間と10分ほど前、待ち合わせ場所に向かいながら考えた。合コンが一番楽しいのは、期待と不安を胸に膨らませながら待ち合わせ場所に向かうとき-すなわち今ではなかろうか、などと考えながら。もちろん本当はそうあるべきではない。合コンのその場で会話がはずみ、楽しい時間が流れることが一番望ましいはずだ。しかしながら事実は事実としてそうした希望とは別に存在している。

将来に不確定性があるとき、たいていの人間はそれを自分に都合のよい願望ととりまぜて想像する。そして大抵の場合そんな願望など気にもせぬ現実と向かい合い深い絶望感にさいなまれることになる。希望がなければ絶望もない、とわかっていながらそうせざるを得なかったのは、これが人間の遺伝子奥深く刻まれていることなのであろうか。こうした根拠のない楽観論をもつ事が種の保存に有利であったというのだろうか。

 

待ち合わせ場所で友達と会ったのは1時間8分前のことだ。

「元気?ちょっと疲れてんじゃない?」

などと何気ない会話をかわしてみる。しかし気になるのは、唯一相手の顔を知っている「この男」-この野郎はつてだけもってきて他の全てのアレンジを私におしつけたのだが-の視線である。「この男」の視線が野郎以外の一点に固定され、口を開くとき、その視線をたどれば本日ごいっしょする相手がいるはずなのだ。そしてその視線が定まり、手をあげて声をかけるとき、私はその視線の先を追った。

 

多分私の顔には微笑みが浮かんでいたのだと思う。これは長年の合コン生活の間に身につけたマナーだ。しかしひざは崩れ落ちそうになっていた。筋肉には自分の意志でコントロールできるものと、そうでないもの-不随意筋といったか-があるという。どうやらその不随意筋はこぞって

「帰ろう」

といっていたように思える。私の本能は、無意識は将来に対してある種の「危機」を感じていたのだ。しかしここは幹事としての責務をはたさねばらない。私は「この男」から紹介をうけ、相手の幹事らしき女性に挨拶をした。

 

彼女の後ろには一人の女性の姿が見える。そしてその彼女も私の不随意筋の反乱を収めてはくれない。私は心の中で何度も自分にいいきかせた。いいか。まだ相手の骨格及びその上の筋肉、脂肪、および皮膚の構成状況を観察しただけではないか。古の教えを思い出せ。

「美人は三日みれば飽きるが、ブスは三日で慣れる」

ええい。美人を三日みて飽きるような目にあってみたいわい、という心の叫びはここでは忘れろ。とにかく楽しく会話することに集中するんだ。

 

そう自分に言い聞かせると密かに気合をいれる。まもなく人数がそろい本日予約した宴会場に向かう。本来であれば-何が本来というのだろう-この宴会場に向かう時間というのは、男女間の緊張感と

「なんでもないんだよーん」

と勤めて装おうリラックス感がせめぎあうなかなか興味深い時間である。しかし今日の私は自分に言いつづける。楽しい会話。それが合コンの本来の目的だ。まだ貴様は相手と話をしていないではないか。

 

店に着き、案内された場所はこじんまりとしたテーブル。この席決めでまた私の不随意筋は

「帰ろう」

と叫び出す。なぜかといえば女性はいつまでたっても座る気配を見せないからだ。女性たちは先を譲り譲り、そしてずりずりと後ろに下がって行く。そのままにしておけば、おそらく店の外にでてしまうのではないか。

笑顔をつくり、「はい、ほい、へい」と妙な間投詞を入れながらなんとか女性、それに男性を座らせると店の人が来る。前述の「本日の時間確認」の後には

「まずはお飲み物」

である。しかし(予想した事とはいいながら)これがなかなか決まらない。なんとか女性たちにから注文を引き出すべく私は努力した。この努力ということに関しては自分で恥じることは何もない。しかしそうしながら私は一つの避け難い結論が頭の中で踊っているのを感じていた。

 

今日の相手とは話しがはずみそうにない。

 

ここまでの光景を私は自分の目の前に現実に起こっている事かのように思い出す事ができる。そしてわれに帰り、再び時計を見る。残り時間は55分だ。これだけあれこれ考えても5分もたっていない。いっそのこと

「ちょっと早いけど、これでお開き」

と言ってしまおうか。しかしそれだけはどうしても言えなかった。どうしてそんなことが言えよう。まだ時間は半分しかたっていない。そして私は幹事なのだ。はずまない話しであっても弾ませなければならない。それが幹事の責務というものだ。まだ負けを、そして崩壊を認めるには早すぎる。

しかしそんな私の思いをよそに、女性は沈静化したままだし、男性の出席者は沈静化した相手と一体化して沈静しているもの一名。残りの一名-「この男」であるが-はそんなことは一切かまわず己の不気味なのりに邁進している。

 

私は会話はキャッチボールのようなものだと思っている。僕がボールを投げる。ナイスキャッチ。今度は君がなげてごらん。おっと今度はカーブがきたね。という感じであろうか。会話が左右に飛び交い、楽しい時間がすぎる。

しかしこれは「信仰」にすぎない。なぜ「信仰」かといえばこれは所詮願望であり、証明-現実の裏付けを欠いているからだ。そしてその私の「信仰」を打ち砕く現実が目の前に展開している。そりゃ確かに私の話しがつまらない、という事もあるだろう。趣味が合わないということもあるだろう。しかしなぜありとあらゆる球種をなげているのに

「はい」

の一言、もしくはあいまいな笑顔で終わりになってしまうのか。受け取ったボールをその場に静かにおいてそれでお終いになるのか。私のボール籠はもう30分前に空になっている。そして相手からは一球もボールが返ってこない。

そして「この男」も私の根拠のない「信仰」を打ち砕くのに一役かっている。彼は会話はキャッチボールとは思っていない。彼にとって会話とは自分が好きな球を好きなだけ投げる「投げ込み」なのである。相手がボールを返そうが、返すまいがおかまいなしに彼は「投げ込み」を続ける。そして彼は無尽蔵とも言えるボール籠を持っている。会社の愚痴、知らないだれかのうわさ話。自分の自慢話。こうした話は大量に存在してはいるが、私が合コンに行くときにはボール籠から出しておく。こうした泥玉は投げたくはあっても誰も受けたくないからだ。しかしそんなことは彼の考慮するところではない。泥がついていようが、相手が身をかわそうがかまわず彼はボールを投げ続ける。

しかしどうして彼を非難できよう。今この場で曲がりなりにも沈黙を撃退しているものがあるとすれば、それは彼の投げ込みなのである。しかし彼が乗るにつれ、私は

「沈黙と彼ののりのどちらがましであろうか」

と考えはじめている。

 

たとえばさっき私がビールを口にしたとき、彼はいきなり

「いっき!いっき!」

とわめき出した。それに唱和するもの皆無である。誤解してもらっては困る。私とてこの場をなんとか盛り上げようと考えているわけだから彼と一緒にのりたい気持はやまやまなのだ。しかしどうしても彼の言葉に合わせられないのはいかなることか。彼はすでにして集団を飛び出してしまい、独走態勢にはいっているのか。誰も彼にはついていけないのか。

そのうち彼は自分が飼育している「水虫」の話しをしだした。ワライダケを食べた人間が笑う、と思われているのは実はひきつった顔がそう見えるだけであり、本人は大変苦しがっていると聞いた事がある。実際私の顔はひきつっていたし、多分他の参加者に浮かんだ表情も「苦しさ故のひきつり」だったのではないかと思う。しかし彼は笑っていると判断したようだ。

 

おい、ちょっとまて。やつは靴を脱ぎ出した。何をする気だ?

「男だもん。水虫くらいありますよ。ほら見せてあげますよ。」

私は「投げ込みの神様」にすがることの限界を察した。「おい。靴をはけ」

まったく次ぎから次ぎへとよくやってくれる。切れた堪忍袋の緒が蘇生する暇もないほどだ

しかしながらここで彼を止めるだけでは十分ではない。時計をみれば、まだ残り時間は45分もある。昼寝でもすれば45分などまさにうたかたの間であるが、しかしなぜさっきからこうも時計の歩みはのろいのか。いや、そんなことを嘆いている暇はない。何か話題をふらなくては。「投げ込みの神様」を否定するのであれば、自分が盛り上げる責任を負うことになる。ええと。話題話題。そうだ。

 

「今日は本当はこいつが幹事をやるべきだよね。だって直接○○さん知ってるのこいつなんだからさ。」

「何をいってるんだ。おまえが合コンやりたいってわめきちらすから紹介してやったんじゃないか」

 

どうやらやつはさっき私が「水虫披露」を止めたのを根に持っているようだ。口調がとげとげしい。やつのしゃべりを否定し、この場を沈黙が支配するのを見守るか。あるいは彼の水虫をみなで鑑賞するほうをとるか。私は前者がはるかにましだと思っていたのだが、いっそのこと水虫鑑賞会にしてもいいのではないかと思えてきた。

いや、まだあきらめてはいけない。なげてはいかんのだ。こうなればとにかく彼のご機嫌をとって、とりあえず場の雰囲気をなごませようではないか。場が和んでこそ会話も続こうというものだ。

 

「いやいや。感謝しているんだよ。こんな楽しい女の子達を紹介してくれてさ。(この台詞が、この場ではおそらく必要なものだとはわかっている。しかしこの「心にもない台詞」をはく事で、自分の中の何か大切なものをなくしていくような気がするのはなぜだろう)

おれが幹事とすれば、こいつは影の幹事。いやいや。そんな裏役じゃない。立派な幹事長だよな。」

 

すると奴は簡単に機嫌をなおし、そして叫んだ。

「そうだよね。今日はいいこばっかりで、最高だよね!(たぶんこの男は自分のおかげだといいたいのだろう)

ボクは幹事長!幹事長も感じちゃう!」

 

頭の中でなにか「ぶちっ」という音がしたような気がした。荘子に言う 

「外界の事物に逆らって傷つけあっていけばその一生はあっという間にすぎさってしまうであろう」 

私の体はまだ宴会場にあった。しかし心は遠く彼岸へと飛んでいった。

ブラックホールに吸い込まれ、事象の地平線を越えた物にとって、後戻りはない。外からみれば事象の地平において永遠に止まっていると見えるが、その男にとっては永遠などあり得ない。必ず有限時間のうちに特異点にぶつかることになる。彼が何をしようと一般相対性理論の神様には逆らえない。

自分がしてきたことが、「外界の事物に逆らう」ことであったのだろうか。ブラックホールから脱出しようとする無駄なあがきだったのだろうか。この合コンは崩壊するべく運命づけられていたというのであれば、何故私はその不可避の運命に逆らおうとしていたのだろう。

そもそも合コンがなんだというのだろう。時計の歩みがどうしたというのだろう。短くあっというまに過ぎる一生においてこの会話が、どれほどの意味を持つのであろう。空が蒼く見えるのは、遠くへだたりがないからであろうか。そしてその空を舞う大鵬が地上を見下ろすときもまたこの地上は青々として見えるのであろうか。その青々とした中にある小さなしみがこの宴会場だとすれば、そこで起こっているにどれほどの意味があろうか。崩壊が避けられない運命というのなら、その

「がらがら」

と崩壊する音律を楽しめないのか。しかし私の頭の中では別の声が響く

 

「んなことできるわけないだろ」

 

私は軽くため息をつく。知っているのだ。こんな似非悟りを振り回したところで、自分すらだませないことを。蒼い地球の中にある小さな小さな宴会場だとしても、私は今その場所にいる。そして私にとって今「外界」という言葉が意味するのはこの宴会場なのだ。

 

また時計を見る。私がいかに道家の心を思い出そうが一般相対性理論に思いをはせようが時間は進まない。残りは43分。「この男」はまた靴を脱ごうとしている。残りのメンバーは沈黙している。私の不随意筋達は合唱をやめようともしない。

 

夜はまだ続く

 


本文章は「第5回雑文祭」参加作品である。一作目を結構早く書き上げた後、それを推敲するとかすればよいものを何故かもう一作書く方を選んでしまった。別の想定にしてみよう。何がいいかな、などと考えHappyDaysシリーズに書かれるところの日々に考えたことを切ったりはったりしながら書いてみた。

時の流れの速さというのは、矛盾した表現だとどこかで読んだ気がする。矛盾していようがいまいが時間の長さというのは相対性理論など持ち出さなくてもけっこう主観によって伸び縮みするものだ。今回の縛りにより、文頭は

「秋の夜は長い」

と決まっている。合コンが長く感じるということは、あまり楽しい時間ではないということではないか。そう思えば架空の合コンであっても楽しくない物になるのは避けられない。決して私に自虐癖があるとかそういうことではない。しかしそうした悲惨な合コンほどリアルに記憶に残ってしまうのは何故だろう。

 

正直に告白するが最後の落ちは自分でも今ひとつだと思う。書いていて思ったのだが、今回の縛りだとこういう「崩壊型」のストーリーは結構考えやすいのかもしれない。しかしその安易な型に簡単にはまってしまうのもひねくれものの私としては悔しい。しかし実際にこういう場面にでくわした場合、想像力を欠いた私は避けられない運命-崩壊にそのままつきあたってしまうのも確かなのだが。

ちなみに文中にある「水虫披露」は私の創作ではない。実際にあったことだ。

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注釈

会話はキャッチボール:(トピック一覧)NTTではこれは信仰にすらなっていないような気がする。本文に戻る

荘子:参考文献)ここの内容は内篇の最初の二篇からとった。本文に戻る

一般相対性理論の神様:(トピック一覧)この神様のふるまいはちゃんと規定されている。誰もこの神様を否定することに成功してはないが、神様の正しさも未だ実証されていない。本文に戻る