日付:1998/3/8
修正:1998/7/8
950円グリーン・マイル-The Green Mile(2000/4/9)
宣伝が伝えるところによれば、スピルバーグ監督はこの映画をみて4度ないたそうだが私は泣かなかった。
ストーリーはとても重厚にそして真面目に進んでいく。「癒し」の力をもった死刑囚とその死刑を執行する看守との物語だが。
少し変わったところかもしれないが私にとって一番印象に残ったのは夫婦の間の愛情である。37にもなって結婚する気配もない身としてはこのように気遣ってくれるあるいは気遣うことのできる相手がいる、というのはうらやましいことだと身につまされたりもする。しかしおそらく世の中の夫婦すべてがこのようでないだろうことを思えば相手を選ぶのに慎重であるべき、と自己弁護のようなことを考えたりもするが。
全体の構成はどこかSaving Private Ryanを思い出させる。残念なのは最後に現代に視点が戻ったとき、すこし「ばたばた」したように思えたことだろうか。トム・ハンクス演じるところの看守が「罰せられる」のはどうもきわめてキリスト教的な雰囲気(これは私がおそらく誤解しているところのキリスト教だが)がしてちょっとついていけない。
恐ろしい犯罪の光景をまざまざと観、
「こうしたことが世界中で起こって居るんだ」
ということを「解って」しまう男がもう生きたくないと思うのは或意味当然かもしれない。(ふと思うとこの男のこうした言葉、それに死もどこかイエスという名にかぶせられた物語と重なったりするが)
時々子供に対して「人の痛みがわかる人間になってほしい」という親の言葉を聞く。しかし「人の痛みのわからない人間」のほうがはるかに幸せに暮らせるように思えるのはこの世の現実というやつなのだが。
かくのとおりあれこれ考えさせられることは確かなのだが、映画として観たときにはどうしても「今ひとつ」という感じがしてしまう。一時は「トムハンクスはこの映画でオスカーねらい」と言われたがノミネートもされなかったのは宜なるかな、である。彼が「開通」したときの表情はまさしくアカデミー賞ものだったが。ただし男性はおそらくこのシーンを観るとどこかむずかゆくなる、とは言っておこう。
ジャンヌ・ダルク-Joan of Arc(2000/1/2)
この映画は、映画そのものよりもそれに触発されて考えたことのほうが多いかもしれない。
姉をこの上のなく残酷な方法で殺された彼女は神の声を聞く。そして映画の前半はその神の声に導かれた彼女の行動が描かれる。初期の戦闘は確かに偉大な勝利を収める。しかし何かの本で読んだ以下のセリフを思い出させるような光景が展開される
「戦争に勝つほどおぞましいことはない。負けることを除けば」
神の名を名乗ろうが名乗るまいが戦争はむごたらしい殺し合いなのだ。
私はジャンヌ・ダルクが実際に何をしたのかを「少年・少女なぜなに大百科」に書いていある以上の事はしらない。だから映画の内容についてそれ以上言うことはないが、戦争とは合理を極めた上での勝負師の勘が物をいう、きわめてリアルな行為のように思える。彼女があらわれたことにより志気は高まったろう。そして志気が戦闘においてきわめて重要な要素であることは間違いないが、すべてではない。現実を無視することが、「勇気」と「信念」ととられる局面は確かにある。しかし長い目で見れば現実を観ずにそれにうまく対処することはできない。彼女が奇跡的な勝利を収め、そしてその後敗北したことは必然だったのだ。
そして後半は「神の名」を人間が振り回すことがいかに野蛮で身勝手な物であるかが描かれる。神の名の下に人を殺し、神の名の下に人を裁き、神の名の下に人を火あぶりにし、神の名の下に人をたたえる。最後のシーン、燃え上がるジャンヌ・ダルクの上にかざされるキリストの像、そして最後の「500年後に彼女は聖者の列に加えられた」というテロップはそれを無言のうちに語っている気がする。
多くの宗教がかつて隠そうともしなかった独善性、それに伴う野蛮性を収めるようになってきたのはありがたいことだ。この映画の中でそうした「神の名を語る人間」に対する言葉はダスティン・ホフマン演じるところの黒服の男によって語られる。そう思えばこの映画はとても正直に宗教の名の下にかつて行われた人間の行動、そして一人の人間としてのジャンヌ・ダルクに相対しているのかもしれない。もっともこれは想像だが、ジャンヌ・ダルクにとっては神懸かりのまま火あぶりにされた方が幸せだったのかもしれないのだが。
最後に一つ。ジャンヌ・ダルクは現実を観ようともせず(そのおかげで初期には大成功を収めたのだが)そして自分の過ちを認めようともしなかった。最後に彼女がそれを認めたのは懺悔の場においてである。この「人には罪を認めなくても、懺悔によって罪を認めればOK」というシステムが「自分は絶対悪くない」欧米の文化の根底にあるのかな、とちょっとだけ思った。
少し体力が回復した土曜日。何か映画を見よう、と思ってぶらっとでかけた。いくつかの映画館をみてこの映画を見ることにした。
映画の冒頭RONINという言葉の説明が出る「受験に失敗して、翌年の試験を受けるために一年予備校に通うなどして。。。」ではない。主君を失った元侍のことである。
こうした謎解きを含んだ映画は去年から何度か見ている。私から見たとき、この手の映画はあまり謎が深すぎると、「凝った筋ではあるけどついていけない」という感じを持ってしまう。このRONINは適度にテンポがあり、「悪くない」という感じを持って観ることができた。
しかし「謎解き」は私の頭がついていっていないせいもあるかもしれないが、ちょっと浅すぎる気がする。途中追われる立場になった主人公たちが助けを求めるところがあるのだが、この助けを求められた相手はその後ほとんどでてこない。あれはなんだったのだろう、、、おまけに途中から生き残ったジャン・レノとロバート・デニーロが何故相手を追い続けるのかも今ひとつピンとこない。おまけに途中で赤穂浪士を引き合いにだして「セップク」だの「RONIN」だのの言葉を説明するところがあるのだが、それがどう筋と関係するのかも今ひとつわからない。
また途中でやたらとカーチェイスの場面が出てくる。私は大変な小心者なので、町中でのカーチェイスをみると「人をはねてしまうのではないか」と心配になって落ち着かなくなる。(この映画のなかではバイクにのった人が一人だけはねられる)なのにこのカーチェイスは延々と続くのだ。
かように「もうちょっとRefineすればいい映画になったかもしれないなあ」と思ってしまった。というわけで「今ひとつ」の950円とした。
暑い暑い日、私の部屋には冷房がないので、とても昼間にいる気がしない。どこかに避暑にひかなくてはならない。映画はどうだろう。。。
こういった動機が無かったら多分観なかった映画だろう。この手の映画は日本ではほとんどみていない。
さてそうはいうものの結構映画自体はおもしろい。「最後まで真犯人がわからない」という言葉から想像されるとおり、最後近くまで結構悩まされる。
ただし途中で派手な銃撃戦があるところから話が一気に軽くなってしまったような気がするのが残念。「ああ。話が軽くなったな」と思って映画の画面を眺めていると結構細かい矛盾点などに頭が向かってしまう。真犯人は結構捜査に貢献してしまったのではないか?とか、ある男が実際に銃撃戦でコロされていたら、真犯人は結構こまったのではないか、、など。(真犯人は「おまえがあそこで殺されてさえいれば」というセリフを吐くのだ)
そうはいうものの950円の価値はあるだろう。最近TVでよくやっている「あぶない刑事フォーエバー」の予告編を観るとその感は強くなる。
全く関係ない話だが、映画というのはだいたい二人でみるものらしい。私は大抵の場合一人で観る。男の一人というのも珍しくはないのだ。ラブロマンスには不向きかもしれないが。。。ところがこの映画を見ているときに若い女性が一人で来ているのを見つけた。これはとても珍しい気がする。だからと言ってどういうことでもないのだが。
この映画も「予告編はおもしろかったのになあ」の類かもしれない。というか映画自体そんなにおもしろくないわけではないのだが、予告編がおもしろすぎたのかもしれない。
アカデミー賞の受賞式である俳優がスピーチをしている。「私はこの賞を高校教師の○○にささげます」 ここでTVを観ている田舎町の人たちに歓声が起こる。続いて俳優が言う。
「彼はゲイでした」"He was Gay"
この一言が結婚式を間近にした高校教師と彼が住んでいる田舎町を大騒動に巻き込む、というのが予告編である。
実際映画ではこの予告編通りのことがおこる(あたりまえか)ただしそれからの騒動は予告編から予想されるよりも遙かにSeriousな感じで進んでいく。だから予告編をみて「楽しいコメディ」と思って見に行くと失望することになるかもしれない。(もっともこの作品が日本で公開されるかどうか定かではないが)
最後にパーティーでみんなが踊っているシーンは予告編を思わせるような楽しさだ。結局大きな期待さえ持ちすぎなければいい映画なのかもしれない。しかし主演の女優がオスカーの「助演女優賞」にノミネートがされているのは理解に苦しむ。確かに彼女はいい味を出していたと思うが、オスカーのノミネートに値するのだろうか?
いにしえの名作のリメーク(だと思う)原作はフレデリック・フォーサイスの"The Day of The Jackal"という小説。
この小説は2度映画化されている。あまり映画など観ないうちの父が、この一作目を観て「あれはおもしろい映画だぞ」と言っていたのを覚えている。当然のことながら原作も大変おもしろい。
今回のJackalはターゲットが最後に近付くまでわからないのが一つの新機軸。(前作のターゲットはフランスのドゴール大統領)また決着のつきかたもちょっと異なる。追う側のブレインも異なる。(ちなみにリチャードギアが演じている)しかしキーとなるだいたいの筋は似ている。数々の新機軸も「変えてみました」というだけで特に印象的ではない。
「追うものと追われる物」の緊迫したやりとり、という点ではたぶん前作のほうが上だと思う。あるいは単に前作は筋を知らずに観たためか。今回の映画のほうが上なのは狙撃シーンの派手さくらいかもしれない。
まあ950円ぶんくらいの価値はあるだろう。あるいはデートで「何か観る?」って時に見るのに適しているかもしれない。
Tomorrow Never Dies(トゥモローネバーダイズ):(1998/3/21)
おなじみ007シリーズの最新作。今度の敵はメディア王である。
みながらつくづく考えた。007シリーズというのはとても造るのが難しい映画かもしれない。「水戸黄門」のようなもので誰もが結末は知っているのである。おまけに最近映像技術の進歩によって「どんな映像」でも撮影できることを誰もが知ってしまっている。
そういう制約の中でなんとか観客を楽しませなくてはならない、というのは制作者にとってもとてもつらいことでは無かろうか。
なぜこんなことを感じていたかというと、映画に特におもしろい場面もなければ、はらはらする場面もなく、たんたんと始まり、たんたんと終わった気がするからだ。今から思い出してみても、いくつかのセリフと、「中国人諜報員」の女の子が昔好きだった女の子を3人くらい足して3で割ったような顔だったことが印象に残っているだけである。
というわけで細かいところをごちゃごちゃ書いてみよう。まずこの映画の中では「ステルス船」がでてくるが、あの船ではステルスにならない。実際に建造された試験用のステルス船をベースにアレンジしてあるが、実物は「のっぺらぼう」である。しかしデザイナーはそれではかっこわるいと考えたのだろう。表面は「かっこよく」でこぼこしている。しかしそれが思いっきり電波を反射する形状になってしまっている。。。ああ。こんなことをつっこむのは野暮というものだ。
気に入ったセリフはいくつかあった。拷問係のなんとか博士というのがでてくる。彼は007に拳銃をつきつけながら今殺そうとした瞬間、彼らが探しているものが車の中に保管されていて、どうしてもそれをあけることができないことに気がつく。そして彼は「007に開け方を聞け」と命令されるのだ。
そこからの彼の表情は結構滑稽である。「まるで馬鹿みたいに思えるだろう。開け方を教えてくれないか」と言った彼は、実に素直に倒されることになる。なかなか魅力的な悪役だった。
またアメリカ人(?)の次のようなセリフが印象に残った「アメリカは中立だよ。誰も第3次世界大戦が始まるのなんかみたくないさ。Unless we started it」彼らは自分たちが始めるときは「聖戦」だと言い切りかねない人たちかもしれない。
しかしまあなんだかんだ言っても2時間あきさせないで映画は続いていく。けっこう花火がとんだりして景気がいいことこの上ない。だから950円分の価値はあるだろう。これまたデート向けの映画だと思う。
この映画をみる前夜にちらっとTVで「またまたあぶない刑事」という映画をみていたので、007は偉大だと改めて思った。
「あぶない刑事」をみたのは最初と終わりの計30分くらいだがそれで十分だ。この映画を制作した人たちに心から同情した。彼らは私なんかよりずっと映画に精通しているだろう。だから「同業者」として007などの映画を見る度に「ああ。なぜ我々はこんな子供も観てくれないような映画を作っているのだろう」と情けなくなるだろう。週刊ジャンプからとってきたようなセリフ、キャラクター。とってつけたようなスタント。私にはなぜこういうカスのような映画が作られるか、という疑問に対する答えは持っていないが、少なくとも制作者は自分たちがカスを造っているということは知っているはずだ。
これに対して、なんだかんだといいながら、007はおもしろいのである。
Los Angelsの真ん中に火山ができる話。予告編が大変よくできていた。
実際のところ筋もそれだけで、特筆するようなことはない(もっとも最初からそんなもの期待していなかったが)やたら主演の二人が「意図的に危機にまきこまれようとする」のが観ていていらいらする。次に「ああ。こういう危ないことをするのではないか」と思うと必ずそれをやってくれる。
しかし火山の特殊撮影はすばらしい。この映画公開直後に米国ではTVで"Making of Volcano" をよく放映していた。その映画によるとあの溶岩はCGも一部使用しているが大部分実写(もちろん全然別の物質の)なのだそうである。
主演女優は結構きれいな感じのお姉さんだが、彼女がレズであることは有名らしい。別にそのこと自体どうということもないのだが、確かにそう思ってみると、ちょっと中性的な感じがする。
この映画で、火山の爆発とともに、街が一時的に無法状態となるシーンがでてくる。さすがLos Angels.日本では米国で「人種問題に端を発した暴動が発生した」と聞くと、「米国の人種問題は深刻なのか」と思うむきも多いだろう。確かに人種問題は深刻だと思うが、それと暴動とはほとんど無関係である。(私がいる間も白人警官による黒人殴打事件をきっかけに暴動が発生したが)
暴動を起こしている連中の98%はそのきっかけになんの縁もゆかりもない連中である。彼らは「ちょっとした騒ぎ」に便乗して犯罪を働いているだけである。それが人種問題だろうが、公民権問題だろうが、バスケットボールの優勝だろうが、火山の爆発だろうが連中には関係がないことだ。この映画はそれを見事に描いている、といううがった見方もできる。
最後のシーンでは、みんな灰だらけになって「みんな同じ色だ」とかなんとかそんなセリフでしめくくられる。場所が場所だけにこのセリフは「なるほど」という感じがする。
アメリカではたぶん1997年No1ヒット作だったと思う。
ノリは非常にアメリカン。日本でも公開されたが、おそらく米国ほどうけなかっただろう。冒頭の場面で、国境警備隊(?)がAlien(不法移民)をとりしまっていると、本当のエイリアン(ほかの星から来た生物)が混ざっている、というのは英語ならではのジョークだが、日本語でどうやって訳していたか知りたい物だ。
ちなみに日本で「麺in black」というカップラーメンが売り出されているのには驚いた。これは先ほどとは逆の日本語ならではのJokeだ。
もうひとつ、エイリアン追求の鍵になる「タブロイド紙」の内容というのも見ないとちょっとわかりづらいだろう。日本のスポーツ新聞よりも書いてあることは奇想天外で、よく「アダムとイブの化石が見つかった」だの「エデンの園は北極だった」というのが一面にくる。エイリアン追跡の情報源になるのもむべなるかなである。
日本ではこれまたデート向きの映画だっただろう。悩むこともなく、さらさらと見て「あー。おもしろかったね」ではいおしまい。しかし今ふと思ったのだが米国では続編をつくることを誰か考えるかもしれない。。
4とういからにはシリーズもので、1から3があるのだろうが、実はこれが初めて観るLethal Weaponシリーズである。
とにかく出演者がうるさい。彼らはとにかくしゃべってどなっていないと気が済まないようだ。
予告編で流れているロボコップの親戚みたいなやつは最初のシーンだけでてくる。マシンガンと火炎放射器に防弾チョッキで体を固めて、ハードロックを聴いてそこら辺を壊しまくる奴だ。LAだと確かにああいうやつがうろちょろしていてもおかしくない。
ところがそのシーンはその後に何のつながりもない。ただ彼はでてきて吹っ飛んだだけだ。全編こんな調子でストーリーは何か言うのも必要ないほど軽い。途中で「こいつらが町をうろついていると警察署が保険にはいれない」とか言って主人公達は警部に昇進するのだが、最後のシーンでまた降格される。実際何のために昇進したのか、降格したのかさっぱりわからない。軽いタッチでやたら人が死んだりいろいろしていたが最後の決闘シーンだけ妙にシリアスになる。
というわけでとりたてて印象的なシーンもないのだが、まあ楽しく2時間みれたので950円とした。
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バスケットボールの優勝:Chicago Bullsが優勝したときに、Chicagoで暴動が起こったのは有名な話である。本文に戻る