日付:1999/2/1
PB100この1993年の4月は私と会社で使っているMacintoshにとってとても大きな変化があった年だった。話の前にまず私が働いていた会社の残業管理システムについて書いておこう。もっともここから書くことは全くのでたらめで大ウソだから本気にしてもらっては困る。
当時の事業所はタイムレコーダーで出勤時間と退社時間を管理している。その二つの時間の差が勤務時間であり、土日、祝日に会社が決めた日の他は 一日8時間が必要とされる勤務時間だ。しかし例によって例のごとくそんな時間では要求される仕事を終えることはできない。従って残業をすることが必要にな るわけだ。
残業時間は最大限月に55時間。ただし申請をだせば月に75時間まで可能。ただしその場合前後3ヶ月で月平均が55時間を超えないこと、という ことで会社と労働組合で「社員の健康管理の観点から」協定ができている。従ってもし申請せずに月55時間以上残業をつけたり、申請しても75時間以上残業 をつけたりすると偉い騒ぎになる。しかしここで問題とされているのは「残業をつけること」であって「残業をすること」ではない。たとえば会社においてきた 忘れ物に気が付いて休日の朝の8時に会社に行く。そこでちょっと机の上を整理してから帰ろうと思ってふと時計をみたら午後の5時だったとしてもそんなもの は残業のうちにははいらない。あるいは平日午後の5時、定時で帰ろうと思ってタイムレコーダーを打刻。そこから「おっと忘れ物だ」と席に戻って何故か会社 の門をでたのが午後の10時であったとしてももちろん既に午後5時に退社しているのだから、残業がつくなんてことはない。
さて私のグループは非常に忙しいところだったので、まあだいたいコンスタントに月に55時間は残業が必要だった。(もちろんそれに加えて月数十 時間は「おっと忘れ物」ということがあったのだが)ところが3月か2月からか忘れたがお達しが回って「これから月30時間以上(数字は失念)しないこと」 ということになった。何だこれは?当時の社長は私たちが働いている事業所を何かと目の敵にしていた。売り上げの割に利益が全くないじゃないか、という logicだ。彼はこのころから「何であの事業所ではこんなに残業しているんだ」と言い出したそうだ。社長が「残業が多すぎる」と言えば、即座に通達を回 すのが正しい○○重工の幹部の姿だ、とまあそういったことだったらしい。
そして4月がきて新しい年度が始まった。そしてそれと共に回ってきたのが「残業は0.原則定時で仕事をすること」という画期的なお達しである。 なんでも「作業効率をあげれば残業無しで仕事ができる」ということらしい。この時一番優秀な○○重工の社員は「なるほど。残業を0にすることは今後の厳し い事業環境をのりきるための意識改革に必要なのだ。作業効率を向上させよう」と心に誓った。それと同じくらい優秀な社員は小声で「ただで働っけってこと ね」と言ってだまって8時と5時にタイムレコーダーを押すようになった。次に優秀な人間は管理職のところに文句を言いに行った。返ってきた答えは「とにか く残業を0にしろとしか指示をうけていない。仕事の量を減らしていいかって?それはだめだ。仕事の効率をあげればできる」というものだった。その答えを聞 いて「ようするに只で働けってことね」と悟りを得た。そして全くの不良社員である私は激怒した。何の説明も無しにいきなりただ働きをしろとはなんというこ とだ?会社が苦しければそりゃ協力もしようというもの、しかし何故今残業を0にする必要がある?ここよりも遙かに苦しい事業所だって残業は15時間くらい はついているじゃないか。
実際私が働いていた事業所でみんながどのように考えたかは定かではない。しかし労働組合の人に聞いたところでは「現場の作業者のモラルがひどく 低下した」ということだった。いきなり賃金カットを命じられて、それまでと同じ意気で働ける人はいることはいるが、そうたくさんはいない。しかし一番大切 なことは、私が働いていた事業所のトップは社長の命令に盲目的に従った、ということである。これが正しい会社員の姿でなくてなんであろう。現場の作業員 や、私のような不良社員が多少「動揺」したところで、それが何の意味をもっているだろう。事業所のトップは社長から「やればできるじゃないか」とお褒めの 言葉をかけてもらったらしい。「果敢な決断」に対する当然の言葉と言うべきだろう。ちなみにこのトップは自分が出向するときにあちこちの職場を回って挨拶 をしていた。私が働いていた部屋では誰もが彼を無視したが、そんなのは社長からのお褒めの言葉に比べればゴミのような話である。
さてMacintoshに関する文章の中で、何故私がこんなことを書くか?当時私の職務の中に部のネットワークの管理などというものがあったわ けではない。私はよかれと思って「忘れ物」をしてあれこれやっていたわけだ。そこに「作業効率をあげれば残業はいらない」という一方的なお達しだ。当時の 私は忙しい仕事の間になんとか時間をみつけてコンピュータ購入の申請書類を書いていれば「ああ。君は暇なんだ。じゃあこの仕事をやってよ」と上司に言われ る状況だったのだ。そうしてちまちまがんばっていれば、このお言葉。私は全くやる気を失った。もう勝手にしてください、というところである。細々と続けて いたI3Lもこの時を持って打ちきりとした。そして目を外に向けることにしたのである。
さてそうして私が激怒したり、無気力になっているときに妙な電話を受けた。私が働いていた会社には、エアコンを作っている部署がある。そこの人 がシステムの話を聞きたい、というのである。私はまずこう答えた「当所ではシステムを管理している部門が別にありますから、そちらに訊いてください。私が やっていることはいわばUnder groundの話ですから。当事業所の公式見解が訊きたければしかるべき部署にどうぞ」
何故こんなお役所てきな答えをしたか?答えは簡単で、私が働いていたところはとてもお役所的であるからだ。実際この前の発表会の前の「釘」を見 ても解るとおり、とにかくしかるべき部署の方々を出し抜いてはいけないのである。おまけに私の本業はまったく別の仕事で、部内のコンピューター管理なんて のはボランティアでやっていることだ。そのボランティアの動機も「無駄なことはやめて残業はやめろ」というありがたいお達しのおかげで全く消えかかってい るのだ。今更なんだというだ?当所には「世界最高水準機能」のIDEAシステムがあるじゃないか。こちらは残業もできない身だ。そんな話は「しかるべき部 署」の人に訊いてくれ。
しばらくたったら、今度はその「しかるべき部署」の人から電話がきた。なんでも話をしてやってくれ、ということらしい。なるほど、しかるべき部署のしかるべきかたからお墨付きがでれば何も問題はない。私は話をすることを承諾した。
説明は4月の20日。冬もさすがに終わり、暖かくなった頃だ。当日話を聞きに来たのは、課長と主任(普通の言葉で言えば係長だ)と担当者の3人 である。こちらはヒラが一人だ。なんでも彼らは彼らの事業所の技術部内でシステムを担当しているらしい。課長はほとんどうなずいているだけ。担当者は ちょっとおたくっぽく、黙っている。しゃべっていたのはほとんど主任であった。なんでも彼らは役に立つ設計支援のシステムを求めているらしい。そこででく わしたのが前回の私の発表である。これは使えるかも知れない、ということで見に来たそうだ。ちなみにこのエアコン事業所は、私が働いていた事業所が 「IDEAは世界最高」と発表したのを真に受けて、本当に導入してしまった気の毒な人達である。まあ人がいいというか、間が抜けているというか。。。
さてこの時話した内容はよくは覚えていない。とにかく実際に仕事をしているところにつれていって、サーバーから書類を立ち上げるのにどれくらい のレスポンスが得られるか、どのように図案のデータベースを使えるか、などをデモした覚えがある。この人達からはその後一度問い合わせがあり「サーバー上 の文書を検索して表示するのに何秒かかるか?」とかいう妙な質問を受けた。その問い合わせに答えたきり返答がないから、どうなったかな、、と思ってはいた が。ところがこの時あった人達とその数年後に妙な形でかかわりをもとうとは、、、まあその話は後述しよう。
さて世間が暖かくなると同時に私の仕事のほうも大分落ち着いてきた。とは言っても帰国してから半年の精神的、肉体的ダメージは実に大きかったの であるが。私の机の上には相変わらずQuadra700が鎮座し、ばりばりと働いている。そのうち当時はやりだしたCD-ROMが見たい、とかバックアッ プに外付けHDが必要だ、などといろいろくっつけはじめたので、かなりにぎやかな風景となってきた。このQuadraにはどのタイミングだったか忘れた が、キャッシュを増設してあった。雑誌を見ると「安くてスピード1割り増し」と書いてあったので「ほれほれ」と思ってつけたのである。いざつけてみるとな るほど、心なしかスピードがあがった気がする。当時Quadra950なるSpeed up機が発売されていたから、最速のコンピューターではなくなっていたが、それでもone of the fastest machineとして私は大変気に入って使っていた。
しかしそのうち妙な願望が芽生えてきた。持って生まれた性分かどうかしらないが、駄文をかきちらしたくなってきたのである。ところが Macintoshは会社の机の上に鎮座しているからいつでも自由に使うわけにはいかない。こうなると文書を書けばいいだけの用途だからnoteタイプが ほしくなる。
実は前の年の年末に一時「PB145購入計画」というのをやってみたことがあったのである。Quadra700と同時に発売された Powerbookは100,140,170の3機種であった。そのうち真ん中の140に関しては、スピードをあげた(だったかな)PB145なる機種が 米国では発売されていた。その後日本でもPB145Bなる機種が発売されたわけだが(この二つの差違は覚えていない)当時の私はまあ手頃な機種として真ん 中のPB145(あるいはPB145B)を購入しようとしたのであろう。この目的で近くにあったMacintoshを扱っているパソコンショップに行った ところまでは覚えているのだが、何故断念したかは覚えていない。おそらく目的に対してまだまだ価格が高かったからではないか。
さてそうこうして暮らしている私にある日あるうわさが耳にはいった。同じ職場で働いている人が、PB-100を売却したい、と思っているという噂である。時は7月。私はさっそくその人のところにてけてけと歩いていって話を聞いた。相手は「どこから訊いたんですか?」といいながらも「いや実はそうなんですよ」と言った。
ここで私のそれまでのPB-100に関する思い入れについて書いておこう。実はIIcxを買う前に「いつになったら自分で買うんだね」と言われ て私が答えたセリフが「ポータブルがでたら買います」だったのである。多分当時から持ち歩けるコンパクトなMacintoshがあればいいな、と思ってい たのだろう。それにAppleがPortableを開発している、という噂は根強く当時存在していたのである。
さてそこに待ちに待ったポータブルの発表である。1989年9月のことだ。それからしばらくたって「世界で一番大きい錨」とか呼ばれるように なったPortableだが、当時の「ラップトップ」なるコンピュータはだいたいあの大きさであったことをここで明記しておきたい。おまけにスペック自体 は結構印象的だったのである。
まず私が注目していたのはポインティングデバイスをどうするか、であった。今でこそパーソナルコンピューターはすべからくポインティングデバイ スを標準で装備するようになったが、当時DOS系のコンピュータはそうではなかった。未だにキーボードだけで大抵の用がたりたのである。当然場所の成約が 厳しいポータブルには私が知っている限りポインティングデバイスはついていなかった。ところがMacintoshはそうはいかない。マウス無しには最初の 一歩を進めることすら容易ではない。従ってなんらかの対策を講じる必要がある、と思ったらトラックボールがついてきた。そのトラックボールは結構つかいよ かったし、おまけに左利きの人用には左右を入れ替えることができたと思う(ちょっと不確か)おまけにバッテリはなんと6時間も持ったのである。CPUこそ 68000ベースだったがクロックは16MHzで実用には十分早く、おまけに液晶は当時あまり多くはなかったTFTだったから実に鮮やかなものだった。問 題は価格である。一声100万円もしたのである。(最も当時のMacintoshはだいたいこれくらいの値段だったのだが)
さて公言していた信条に依れば私はこのコンピューターを購入するべきなのだが。。。結局買わなかった。コンパクトさは魅力だったが、あまりにも高い、というところだっただろうか。
さてこのPortableなる機種は全くうれなかったのだろう。この後バックライトをつけるアップグレードが発表されただけでどこかに消えてしまった。それから数年、確か1991年だったと思うが、新たなコンセプトの元にPowerBook3機種が発売されたのである。
複雑な理由により、私がこの機種について最初の想像図を見たのはフランスであった。まずその絵からみてとれた「手前にパームレストをもうけ、そ こにトラックボールを配置する」という斬新なデザインに驚いた。(今でこそこの配置は当たり前になったが)これはまさに当時ではコロンブスの玉子的発想 だったのである。それまでノート型コンピュータといえば、未だにIBMのThinkpadがやっているように、手前の縁までキーボードがのしているタイプ ばかりだったのだ。
さてそれからだんだん詳細が明らかになってくると、私は特に一番安いPB100に興味を持つようになった。なにが良かったと言って、フロッピー を外付けにしてまで小型、軽量化を図っているのが気に入ったのである。考えてみればフロッピーというのはそうしょっちゅうつかう物ではない。なのに結構場 所と重量はとる。であれば外付けにしよう、という極端な考えが大変気に入った。私はよくわからないが、こういう斬新な割り切ったコンセプトをもつ製品を見 ると、とても気に入るようである。CPUは68000の16MhzであるがPortableで経験したとおりこれは十分なスピードということができる。
さてそのうちStanfordのBookstoreにもPowerbookが展示されるようになった。私がいの一番にさわってみたのは PB100である。うーん。これは結構使える。Stanfordの学生は学割でMacintoshを買うことができる、ということは前述した。それまでは 「2年に一台割引価格で購入できる」ということだったのだがPowerBookの発売とともにこの規定がちょっと変更になった。曰く「2年にデスクトップ と、ノート型を一台ずつ購入できる」だそうである。こうなるとここで一発購入して帰るのは結構いいことかもしれない、、、とは不思議なことにあまり考えな かった。Stanfordでは全ての時間Private useでコンピュータが使えたからであろうか。
さてとにもかくにも私が気に入っていたPB100が手にはいることになった。価格は10万円。話がまとまると、すぐに社内預金(当時はこういう ものが存在していたのだ)から金をおろしてPB100を引き取った。RAMは6MB、HDは40MBである。このコンピューターは文章作成用、と割り切っ て購入したのだから、このRAM容量とHD容量で全く不足はない。次にはClaris Worksを購入した。このソフトの評判の高さは雑誌のレビューなどで知っていたし、軽量でなんでもできるClaris WorksはこのPBにぴったりだったからだ。
実際このClarisWorksは快調に動いてくれた。しかし問題が一つだけあったのである。Ver2のClarisWorksではインライン 変換ができなかった。普通はあまり気にしないのだが、大量に文章を入力しようと思うとさすがに気になり出す。変換ウィンドウをひらきっぱなしにしていると 画面領域がもったいない気がするし、かといって表示したりしなかったりだと今度は遅さが気になる。
結局解決策はシェアウェアにあった。実は未だに使っているのだが、inline++TSMというシェアウェアをいれることで、めでたく ClarisWorksでのインライン変換ができるようになったのである。正直言えば、ときどき妙な位置に変換ウィンドウがでる症状には気が付いていたの だが、まあそこはそれ。別に大きな問題があるわけでもなし、気にせずすませることにした。
さてこうしてPrivateでどこにでも持っていけるコンピューターを手に入れた私はさっそくいろいろな事を書き出した。1993年7月17日の日記にはこう書いてある。
「93年7月17日。PB100が手に入りばりばり書いている。全く性能には満足している。以前に1992年の年末にPB145を買おうかと 思ったことがある。動機は同じである。要するにあいた時間に色々物書きをしたいと思っているのである。留学に行く前の秋に狂ったように「YZ姉妹」を書い ていたこともあった。あのころは体調も精神的状態も最低であったにもかかわらず朝7時から8時まで、ひるの休み、夜7時から7時半間ではけっして早いとは 言えないSEに向かって狂ったようにかいていたのである。
なにはともあれPB100の性能にはまんぞくしている。欲を言えばClarisWorksを含めてこの値段であればもっと良かったけどね。贅沢 はいえない。この値段で買うことができるPBはこれしかない。要するにこの文章が残ることが持つ意味が果たして13万円に価するかということだ。今ならば それはDefinitely Yesということができる。」
この当時書いた文章というのもいくつか私のHDの上には残ってはいる。しかしそれらはあまりに仕事の愚痴のことが多くて、あまりろくなもんじゃ ない。(私が書いている文章のほとんどはそうだという噂もあるが)しかし私はPB100を使っているうちに、こうしたノートパソコンが自分の性分にあって いることを発見することになる。私が働いていた部署は7月の終わりに一週間近く夏休みがあった。この時初めて私はコンピューターをかかえて旅行に行く、と いうことをすることになる。北陸地方のある宿で、コンピューターをぱたぱたたたいているのはなかなかナイスな経験だった。PowerBookの利点発揮と 言うところである。Quadra700は相変わらず会社でばりばりと働いていたが、この後の私のコンピュータ選定方向はだんだんと変化していくことにな る。
さてそうこうしているうちに、会社での私の進路も大きく変化することになった。「君はきめられた範囲で、言われたことだけやっていればいい」と いう上司のありがたい言葉と共にソフトウェア設計の部署に転属になったのである。○○重工ではソフトウェアなどというものはまあまともな仕事だとは思われ ていない。(転属を命じたときの上司の言葉でも解るとおり)早い話私は上司から「君は役に立たないからあっちに行け」と言われ訳だ。しかしソフトウェアの 仕事自体は私の性分には大変あっているのである。おまけに行った先ではうるさい上司に一から10まで全てを説明する必要もなく、とても自由に仕事ができ た。今から考えればこの時の転属がその後の私の進路をそれまでの路線から大きくそらせることになるきっかけとなったのだ。
転属の日は11月1日。言い渡されたのは10月の19日である。次の休日に私はQuadra700を一式寮に持って帰った。もうこのコンピュー ターを会社で使うこともない。これからは逆にPB100を会社で使い、Quadra700を寮で使うことにしよう。次の月曜日まわりの人間は驚いた。それ まで私の机の上に鎮座していた部内最高速のQuadraがあとかたもなく消え去り、代わりに私は背中をこころなしか丸めてPB100を使っている。私の転 属が発表になったのはそれから大分たってからだった。その時になって回りの人間は「そういうことであったか」と納得したのであるが。