題名:科学について-相対性理論と疑似科学

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日付:2000/6/25


この文章について

何故私がこのような仰々しい題名をもった文章を書こうと思ったか。元をたどれば私が書いた文章の中で初めてYahooに登録された「暗号について」が(このサイトの中では)Hit作となったのに気をよくしたことから始まる。そしてその後調子にのって書いた「ネットワークについて」もヒットになった。

なんだかんだといっても人に読んでもらう為にサイトを造っているわけだから、よりたくさんの人に読んでもらえるのはうれしいことだ。さらにうれしいことに、これらの文章に対し時々「ためになりました」とメールをもらうこともできたのである。フラストレーションにあかして書いた文章であるが、それが世のため人の為、少しでもお役に立てる、というのはそんなに悪い気持ちではない。かくして私は柳の下のさらなるドジョウ獲得,つまりHit数向上及び世のため人の為になることを願って書くことにした、というのは全くの嘘である。

このテーマについてはだいぶ前から興味をもっており、これまでに何度かあれこれ調べた。そして最近ようやく自分くらいは

「なるほど。だいたいこういうことらしい」

とだますことが出来るようになったと思っている。その自分が「こういうことらしい」と思ったことを忘れないため、そして自分の理解を確かめるために、、、いやこれも嘘だ。長々と書いて結局ここにおちつくのだが、とにかく一文をこのテーマで書いてみたい、と思うようになったのである。理由など特にない。

私の「○○について」シリーズはこれで3作目だ。例によって例のごとく書いてあることはすべてあちこちの本やらインターネット上の資料やら、Niftyserveの書き込みやらの切り張りである。それらの出典はできるだけ書くようにするが、もし抜けているところに気がついたらお知らせいただければ幸いである。またそれよりも「なんだこのでたらめは」というご指摘も歓迎します。おそらく知っている人がみれば、苦笑どころか激怒するような間違いをいくつも書くことだろう。そうした場合もただ激怒しているよりはメールで教えていただけたほうが好ましい結果をもたらすに違いない。あなたの精神状態にとっても、何かの間違いでこの文章を読む人にとっても、そして私にとっても。

 

解題 

私が初めて「相対性理論」なる言葉を聞いたのはいつであったか定かではない。小学校5年だかの時に祖父がなくなった。そして離れの小屋に一杯あった祖父の本を

「どれでも持っていってもいいよ」

と祖母が言ってくれた。そのときもらった本に相対性理論を扱った本が含まれていたことは確かである。そしてその本に書いてあった

「地球から光を放てば、その光は重力に曲げられ、いつか地球に帰ってくる」

というくだりを思い出し、キャンプに行ったとき夜空に向けて懐中電灯の光をふりまわしていたのを覚えている。もちろん小学生であったその頃の私にとって理論の内容などはちんぷんかんぷんだったが。

そして同じ頃父に

「相対性理論ってなに?」と聞いたことがあった。なんだかそういうものがあることだけは知っていたのである。私の記憶が定かならば父の答えは

「すべての物事は相対的ってことさ」

というものだったが。

 

さて、時は流れて私は高校生になった。NHKで「相対性理論をわかりやすく説明する」というふれこみの海外制作の番組が放映されるのを知った。そうか。わかりやすく説明してくれるのか、と思い期待して観る。やたらと「E=mc2」と側面に書いてあるトレーラーがでてきたり、「誰にでも理解できるようにわかりやすく説明します」というセリフが繰り返されたが、肝心の中身はさっぱりわからなかった。理解できないのは自分だけかと思い柔道部の仲間に「あれ解った?」と聞いたら同じ様な感想が返ってきたので安心した。

また秋には学園祭があった。その企画の一つに「自主ゼミ」なるものがあり、自分たちが興味をもった内容について何かができることになっていた。そして2年生だかの時に私は「相対性理論」のゼミを選択したのである。

最終的には物理の先生がグラフを用いた解法で時間の遅れであるとかを説明し

「大学2年生くらいまでの相手でしたらできますから、いつでも質問があればどうぞ」

と言った。たしかに言われたとおりグラフを書くと時計が遅れたり長さが縮んだりすることになるのだが、今ひとつ釈然としなかった覚えがある。しかし肝心なのはそこではない。その前に

「先生に聞く質問をまとめる」

という時間があり、そこで私は3っつ質問をした。

その一つは双子のパラドックスについて。もう一つは(後から考えれば)大変馬鹿な質問で「E=mc2といった場合のエネルギーの単位は?」というものだった。(質量に速度を2回かければエネルギーの単位になる。普通の運動エネルギーは質量×(速度)2/2だし)

そして最後の質問は今から考えれば(当時私が意図していたかどうかは別として)なかなか深い内容を含む物だった。

「なぜ光速は観測者によらず一定なんですか?」

それに対する先生の答えは

「これはアインシュタインが理論を構築する際に前提としておいたんです」

というものだった。

私はこのなんだかわからない答えにそのまま引き下がってしまった。自分の質問の意味と先生の回答が何を意味しているかについてもう少し考えを巡らせればまともな結論にもう少し早くたどりついたのかもしれない。

 

その後これまたひょんなことからNiftyserveの物理関係の会議室において、とても興味深い議論が交わされているのを知った。初心者向けの相対性理論の解説。もっと進んだトピックに対する活発な議論。そして周期的に登場する「疑似科学者&こまったちゃん」との論戦(というほど議論にはならないのが常なのだが)

特に最後に揚げた「疑似科学との論戦」はその相手をしている人たちにとって見れば「うんざりする」ようなものだったのかもしれないが、はたで見ている野次馬には興味深く、また多くの場合教育的であった。人のふりみて我が振りなおせ、というではないか。そしてこの「疑似科学」が何故「疑似」かという事を考えることは、振り返って「科学とは」という事に対して思いをはせることにもなったのだ。

時をほぼ前後して私はA brief history of time-ホーキング宇宙を語るという本を読むことになった。この本は

「数式を一ついれるごとに売り上げは半減する」

というアドバイスに従い、E=mc2 という数式しかいれずに記録に残っている最も初期の宇宙観から最近の素粒子論、宇宙論までを解説した驚くべき書物である。この本に描かれている数々のトピックスは確かに興味深い。しかし私にとって一番ありがたかったのは、頭の中に存在していた

「科学とは、理論とは、それを記述する数式とは」

という問いに対して、ぼんやりとりとだが一本の道筋が見えてきたことだ。理論とはどのように構築され、そこから何が言え何が言えないか。「それは科学理論に反している」という言葉は何を意味しているのか。そうしたことが多少なりとも自分の中で整理できたように思えたのだ。

 

だからこの文章では過去の自分が感じていた疑問に対し自分なりにみつけた答えを書いていくことにする。具体的には特殊相対性理論、それに一般相対性理論はさわりだけ、をとりあげるが、それと同時に

「科学とは」

という設問にも自分が理解したところの内容を書いてみたいと思う。そしてそれを考えるきっかけをあたえてくれた「疑似科学」についても最後にふれることにしよう。

 

前提

さて、科学について書いてみようというのだから、最初に必要なのは定義だ。もちろんここで

「科学が何かとは科学を極めたときにわかるものだ」

と禅問答的な言葉でお茶を濁すこともできるわけだが、不幸にして私はそういう感性をもっていない。素直にA brief history of timeから「科学理論とは何か」について引用する。私は未だにこの文章ほど簡明な定義を知らないし、自分でこれを越える物がかけると思うほどうぬぼれてはいない。

 

「ここでは、理論とは要するに宇宙全体あるいはその限定された一部についてのモデルであり、モデルの中の量を我々の行う観察に関係づける一組の規則である、という素朴な見方を取ることにする。理論はわれわれの頭のなかにだけ存在し、それ以外にはどんな実在性(それがどんな意味であろうと)も有しない。

次の二つの要件を満たす物はよい理論である。第一に、恣意的な要素を少数しか含まないモデルにもとづいて大量の観察を正確に説明する物でなくてはならない。第2にこれから行う観測の結果について確定的な予測をするものでなくてはならない。

(中略)

どんな物理理論も仮説にすぎないという意味では、つねに暫定的なものである。理論を証明することは出来ない。ある理論が、実験結果とこれまでいかに数多く合致してきたとしても、この次に実験をしたときには、結果が理論と矛盾しないという保証はない。」

 

さて、次に間違いを含むことを恐れずに前掲したホーキングの定義を短くしてみよう。

 

「物理理論とは観察結果を説明するためのモデルであり、それが実験事実と合致している限りにおいて正しいと主張することができる。」

 

こう考えてみるとき

「○○(新理論もしくは仮定)は××の法則に反しているからだめだ」

という物の言い方にちょっとひっかかるものを感じるのは私だけだろうか?正確に言おうとすれば

「○○を正しいとすると、(すでに「定説」となっている)××の法則が説明している多くの観察結果を否定することになるので受け入れがたい」

ということになるのではなかろうか。

 

具体的に例をあげてみる。それがいつだったか覚えていないが、どこかの時点で学校で「速度の加法則」を習ったのだと思う。

「空気抵抗がないとして、(地上に立っている人から見て)時速30kmで走っているトラックの荷台においたピッチングマシンから(トラックから見て)時速150kmのボールを進行方向に投げた時、地上に立っている人からみたボールの速度は時速180kmになる」

というやつだ。私の記憶が間違っていなければこう習ったはずだし、この

「理論」

を使っていくつか問題をといた記憶もある。

しかしかの有名な特殊相対性理論はこの速度の加法則に反している。実際この理論によれば、地上に立っている人からみたボールの早さは時速180kmよりほんの少しだけ遅くなる。しかし

「特殊相対性理論は速度の加法則に反しているからだめだ」

とは誰も言わない。何故だろう?

 

先ほどの「定義」に戻って考えてみよう。30km/時+150km/時=180km/時という学校で習った速度の加法則も、特殊相対性理論も

「モデルの中の量を我々の行う観察に関係づける一組の規則」

である。きちんと定義され、誤解の余地は(理解不足によるものは別として)ほとんどない。そして両者とも恣意的な要素はほとんど含んでいないし、

「これから行う観測の結果について確定的な予測をするもの」

であることについても間違いない。となれば、異なる結果を予測する二つの理論のどちらが正しいか、を決めるのは

「大量の観察を正確に説明する」

ことができるかどうかにかかっている。

我々が日常体験する範囲の速度においては、両者とも正しいように思える。なぜならこの二つの理論はほぼ同じ速度(ちゃんと差異は存在しているが)を予測するからだ。従ってあれこれ実験してみてもどちらが間違っていると断言できるほどの差は観測されない。

しかし条件が

「極端」

になると両者の予測はくいちがってくる。

たとえば先ほどの設定を

「(地上に立っている人から見て)秒速15万kmで走っているトラックの荷台においたピッチングマシンから(トラックから見て)秒速15万kmのボールを進行方向に投げた。地上に立っている人からみたボールの速度は?」

としてみよう。トラックとボールの速度を早くしただけ(1800万倍だが)で設定自体はなにもかわっていない。高校まででならった物理であれば、別に「速度の加法則は速度がこれこれ以下の場合になりたつ」なんて条件はついていなかったから、先ほどと同じ関係を当てはめることができ、

「ボールの速度は秒速30万km」

という答えがでてくる。

一方(計算は省略するが)特殊相対性理論が語るところによれば

「ボールの速度は秒速24万km」

となる。

正直に書くが私はここで書いたような実験が実際に行われたという話は知らないし、自分で行ってみることもできない。しかし信頼を置いてもよいと思われる書物によればこのような実験を行うとボールの速度は測定誤差の範囲で

「秒速24万km」

と観測される。従って先ほどの定義に従えば、正しいのは特殊相対性理論であり、学校でならった速度の加法則は間違っている。なぜなら後者は

「観察を正確に説明することができない」

から。

このことに思いをはせる時、以下のような(仮想の)ストーリーが頭に浮かぶ。

 

学校で習う速度の加法則は、そりゃまあ単純で、直感的にもこれ以外の法則を考えるのは難しい。

でもって実際に法則から導かれる速度とあれこれの実験結果はきっちりと合っている。こりゃ良い法則だ。

しかし時代が進みずーっと速い速度で、精密な測定を行ったところ、どうにも結果と合わなくなってしまった。ああ、いままであれほど完璧に見え、深く愛していた速度の加法則だったのに。正直言えばどうもこの「特殊相対性理論」なるものは変な感じがする。速度を足したのに、それが単純な和にならない?それはどういうことだ?

しかししょうがない。今やあんなに愛していた単純な速度の加法則は実験結果を説明してくれはしないのだ。なるほど。

「ある理論が、実験結果とこれまでいかに数多く合致してきたとしても、この次に実験をしたときには、結果が理論と矛盾しないという保証はない。」

ものだなあ。いくらあの単純な加法則の肩を持ちたいと思っても実験結果に否定されてはしょうがない。実験結果が否定する、ということはこの世の中は私が考えるよりもちょっと複雑にできている、ということなんだろうか。しかし何故そんな風になっているんだ?

 

さて、ここまで長々と書いてきたのには理由がある。特殊相対性理論が生まれた背景を説明するためだ。極端な言い方をすると特殊相対性理論はある実験の失敗(これは当初の予想と結果が異なった、という意味だが)を説明するための一つの手段とも言えるのである。なぜそんなことが言えるか、そして失敗した実験とはなんなのか。

 

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注釈

定義:この定義に関しては二つほど関連する思い出がある。

一つは教養時代にとった「哲学概論」という講義である。私はこの講義に数度しか出席していないが(そして成績はBだった)その数少ない出席した講義において一つだけ教授が(廣松とか言ったか)言ったことを(そして黒板に書いたと思うのだが)覚えている。

「○○哲学は否定されたわけではない」

ここで言う○○哲学とは、(名前すら正確には覚えていないが)

「物が落下するのは、物が地面の方向に進もうとする意図をもっているからだ」

とかなんとかいう命題を指していたと思う。つまり科学というのは、ふるまいの記述を行ってはいるが、それが「何故」という質問には答えていないのだ。万有引力によりリンゴが落ちるとき、その加速度を記述することはできる。しかし何故おちるのか?リンゴは何か考えているのか?という質問にはなかなか答えようとしない。

そして私が学部に進んだ時(学科は「産業機械工学科」というところだったが)機械工学で学ぶ内容に以下の論調が多いので驚いた。

「こうしてモデル化して、式をたてるとこうした結論が得られる。一方実験結果から実験式を立てるとこのようになり、先に得られた式とはかなり差がある」

そして機会があったとき助教授にこういったのである。

「なんなんですか。あれは。さんざん式の変形やらなにやらやって結論をだしたあげく、”実験式はこれだ”でおしまいじゃないですか」

すると助教授はこういった。

「こういっちゃなんだけど、よく考えれば森羅万象なんでも実験式だよ」

私はその回答に妙に感心した。そしてこのホーキングの言葉を読んだとき、この助教授の言葉をふと思い出したのである。

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地上に立っている人: 当初この()内部はなかったが「速度等の観測点の定義がないので、正確ではありませんね。」というご指摘をいただき、「をを。それは全くその通り」と」追加することにした。本文に戻る

間違っている:こう知ったとたんに「間違った法則を教えるとはけしからん。学校教育は抜本的に改革が必要だー」と得意げに騒ぎ出す人が結構いるのではないかと思うこともある。(本当にはどうか知らないが)しかしながら私が考えるところ、

「まあ。そんなに杓子定規に考えなくてもいいではないか」

ということなのではなかろうか。学校で習う速度の加法則は、現実に出会う範囲であれば十分有効に作用するし、そして何よりも特殊相対性理論よりもはるかに式が簡単である。先ほどの定義に従って、物理法則は

「現実の観察結果を説明するもの」

なのだから

「(日常生活で経験する範囲で)現実の観察結果を説明するもの」

という()の部分を暗黙のうちに追加しておいてもいいではないか、と思うのだが。

このことについてホーキングは前掲書でもっと優雅にこう述べている。(ここで話題に上っているのはニュートンの万有引力の法則と、それと「極端」な場合に予測がくいちがう一般相対性理論だが)

「アインシュタインの予測が観測と合致するのにニュートンの予測は合致しないと言う事実は、新しい理論の決定的な確証の一つと見なされているのだが、実用上の目的には依然ニュートン理論が用いられている。この理論の予測と一般相対論の予測の差は、通常扱われているような状況においてはきわめて小さいからである。(それにニュートン理論には、アインシュタインの理論に比べてたいへん扱いやすいと言う利点がある!)」

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一つの手段:この言い方は「奇妙な論理」(参考文献5)の「くたばれアインシュタイン」から借用している。

実際には他にもたくさん「説明の手段」はあった。しかしそれらは他の観察結果から否定されることになり、

「どうもうさんくさい」

と思われた(であろう)一つの説明だけは未だに名を残している。それが数式的には全く特殊相対性理論と等しかったのは興味深いところだが。本文に戻る