日付:2000/6/30
特殊相対性理論さて、これでようやく特殊相対性理論の説明にはいることになる。その導き出すところはローレンツが導き出したところと(あまり)変わることはない。違っていたのは考えの組立方である。
観測の結果から得られる「事実」-光速がどうやっても変化しない-をそれまではなんとか「結果」として説明しようとしていた。物が縮んだり、時計が遅れたりするから、光速の変化が観測にひっかからない、という「結果」になるんだ、というように。
アインシュタインが特殊相対性理論を構築する際には、その「事実」を検討の「前提」においたのである。(私の質問に対し、高校の教師が答えたように)どうやっても光速が変化しないのだから
「光速が光源の速度に関わらず一定として論理を構築すればどうなるか」
からスタートした。前提としておいたので「光速度不変の原理」などと呼ばれたりする。
こうしたいくつかの仮定を前提としておいて、そこから演繹的に論理を構築する、というのは数学では普通に行われることである。どのタイミングだったか忘れたのだが、私たちが普段使うユークリッド幾何学(三角形の内角の和は180度になる、というやつだ)の前提となっている5つの公理を学校でならった覚えがある。あの公理をベースにあれやこれやの検討をすると、小学校でさんざん悩まされた合同だの相似だのの問題が解けるというわけだ。
そしてこの「前提」を取り替えて理論構築をスタートすると似てもにつかぬ結果が導かれたりする。ユークリッド幾何学が前提とした5番目の公理は
「直線の外を通る点を通ってその直線に平行な直線は一本だけひける」
というものであるが、これを
「平行な線は何本も引ける」
ととりかえて組み立てた幾何学は「非ユークリッド幾何学」と呼ばれる。一体そんなものが何の役に立つというのか。今まで平行線を2本以上引けたやつがいるのか、という疑問がわき起こるのは自然な成り行きだが、皮肉なことにこの世の中は実は「非ユークリッド幾何学」的にできているようなのであるが。
話を物理学に戻そう。アインシュタイン以前の物理学も当然のことながらこうしたいくつもの仮定を前提として組み立てられている。そこから演繹的に結論された
「光の速度は変化する」
が観測されないものだから、あれこれつぎはぎをしたり、テープをはったりして何故観測されないかを説明したのがローレンツの立場。それに対してアインシュタインはそこから出発した。従って私の質問に対する高校教師の答えは「彼が理解した私の質問」に対するものとしては正しい。
しかし私の質問の真意は
「どのような理屈でもって光の速度が一定などという事が起こりうるのか」
というものだったのだ。そして高校教師は、そして特殊相対性理論もその問いには答えていない。実験の結果、これは妥当と思われるとは言えるが、その理屈には言及していないのだ。ユークリッド幾何学が
「なぜ直線の外にある点を通って直線に平行な直線が一本しかひけないんだ」
に答えられないのと同じように。
ここまで書いて、ようやく私は自分が高校生の時に発したといの呪縛から逃れられるきっかけをつかむわけだ。この「何故の問い」は「科学理論」というものの性質にも或程度かかわってくることであるが、すでにしてだいぶ横道にはいっているので、この話は後回し。
参考文献2よりアインシュタインが実際に論文の中で述べた前提を以下に引用する。
前提その1 : どんな座標系でも、それを基準に取ったとき、ニュートンの力学の方程式が成り立つ場合、そのような座標系のどれから眺めても電気力学の法則および光学の法則は全く同じである、という推論である。
前提その2 : 光は真空中を、光源の運動状態と無関係な、一つの定まった早さcを持って伝搬する
前提その2はここまで述べたこと。それに前提1として、ニュートンの方程式と同じようにマックスウェルの方程式及び光の伝搬がどの立場からみても成り立つ、というのを仮定としておいている。さて、これらの前提をおいた時何が起こると予想されるのだろう?ここからの説明は参考文献10を参考としている。
・時計の遅れ
ローレンツ変換を説明するところで、「プロレスのレフェリーがゆっくりカウントをとる」という比喩を使った。カウントはばんばんとマットをたたくことでとっている。この「手が上下する」という動きが一定期間であれば、その回数をもって時間の経過を図ることができる。(もっともかなり間隔はあらくなってしまうが。)
というわけで、次のような状況を想定しよう。レフリーの手ではあまりなので、ここでは光を往復させる。また先ほどと違い、相手の宇宙船の中では高さlの箱の中で、下からでた光が天井に反射し、光源に戻る。光を発射した瞬間に時計をスタートし、光が戻ってきたところで時計をストップだ。
相手の宇宙船から乗っている人間にとって、すべては静止しているから(そりゃ窓の外をみれば、あなたの宇宙船が後ろに行くのが見えるが)、時計がストップしたときに指しているのは2l/c (cは光速)のはずだ。話を簡単にするために、天井までの高さが9万kmとすれば、18万km÷30万km/秒=0.6秒後には時計が止まる。
さて、ややこしくなるのはここからである。今度は同じ実験をあなたの宇宙船からみてみる。すると相手の宇宙船は速度Vで動いていることになる。でもってここでは時間をはかるのに愛天宇宙船にのっている時計を使うわけにはいかない。そりゃあなたの宇宙船から見た場合の話なのだから、あなたの宇宙船の時計を使うのが筋というものだろう。
時計をずらっとならべておき、その上を相手の宇宙船が動いていくことにする。時計のスタートとストップのタイミングは同じようにとるが、スタートさせるのは、その時光源の位置にあった時計で、ストップするのはおう復してきた光が戻ったときに光源の位置にある時計。これらの時計はきちんと合わせてあることにしておく。
さて、ではどのような図柄になるか。説明の都合上、「あなたの宇宙船」からみたとき、相手の宇宙船は、図で左から右に移動していくことにしよう。
床から発射された光が天井に届くまでにはいくばくかの時間がかかる。その間に天井の鏡は右の方向に移動している。そして反射した光がまた床に届くまでにも時間がかかり、その間にさらに床は右に移動する。となると別の宇宙船からみると、上図のような状況になる。
この場合、光が飛ばなくてはならない距離は、先ほどの2lとくらべて長くなる。そしてさきほど説明した前提により、光のスピードは常にcだから、床と天井の間を往復する時間(=距離/速度)が先ほどの値より大きくなるのは直感的に分かると思う。
具体的に計算してみよう。(面倒だと思ったらとばしてもらっても定性的理解には支障がない)網をかけたところに直角三角形ができていることに注目する。天井と床の間の距離はl、光が床から天井の鏡に到達するまでの時間(往復の半分)をtとすると、ピタゴラスの定理から
(斜辺の長さ)2= (垂直な線の長さ)2+(底辺の長さ)2
である。ここで底辺の長さは時間tの間に鏡が移動した距離だからv×t、斜辺の長さは時間tの間に光が伝わった距離に等しく、先ほどの仮定から光の速度はcのままであり、距離はc×t。従って
(c×t)2 = l2 + (v×t)2
でもってこれから
往復の時間はこれの2倍だから
これはかの有名な(と私が思っている)時計のおくれ、というやつである。
具体的な数値で計算してみよう。さっきと同じくl=9万km、とする。でもってvを24万km/secとすると、往復の時間は。。1秒になる。つまりあなたの時計で1秒たったとき、相手の宇宙船に乗っている人間の時計は0.6秒だと思っているわけだ。つまり相手の時計は「遅れている」。
この比を数式で示してみよう。vの値が0より大きいとすれば、分母はcよりも小さくなる。ということは往復の時間はは2l/cよりも大きくなるからだ。先ほど求めた「あなたの宇宙船から見たときの往復時間」との比をとってみると
となる。
ここで上記の比が1からずれる割合、というのはvがcに比べて小さい場合にはほとんど無視しうることに注意しよう。(さっきの計算では秒速24万kmというとてつもないスピードで相手が動いているとしたわけだ)
普通の人はたとえば100m走を繰り返した後に自分の時計が遅れる、といった症状には悩まされないと思うがこれはあなたがオリンピック選手であったとしてもあなたのvは10m/sec,これに対して、光の速度は30,000,000 倍早いからである。嘘だと思ったら計算してみればいい。vとcの比をとり、自乗するとおそらく大抵の計算機および計算プログラムでは値がでないほど小さな値になるはずである。
さて、こやってとうとうと説かれたとしても、
「時計が遅れるだって?」
と承伏しがたい気持ちが起こるのは自然の成り行きである。しかしその自然な疑問には目をつぶって、いきなり次の説明にうつるのである。
あなたの宇宙船の長さが24万kmもあるとしよう。でもって相手の宇宙船はあなたからみて秒速24万kmで近づいてくるとする。すると当然のことながらあなたは、相手の宇宙船の先頭が自分の宇宙船の端から端まで移動するのに1秒かかると考える。
この光景を相手の宇宙船からみればどうだろう。先ほどの妙な結論-つまり相手の宇宙船の中では時計がゆっくり進んでいる-を認めるとすれば、こちらが1秒たったと思っている間に相手の宇宙船の中では0.6秒しか経過しない。相手の宇宙船からみてもあなたの宇宙船は秒速24万kmで近づいてくるように見えるから(これが違って見えればそれこそえらい騒ぎだ)、相手の宇宙船からみれば、あなたの宇宙船の船尾から船首まで0.6秒で通過したと考える。となれば、相手はあなたの宇宙船の長さを
24万km/sec × 0.6秒= 14.6万km
と考える。つまり相手からみればあなたの宇宙船の長さは縮んでしまっているわけだ。そして前提にあった
「どんな座標系からみても物理法則が同一」
を考え合わせると、あなたの宇宙船からみた相手の宇宙船の長さも縮んでしまっていることになる。
なぜこんな結論が導かれてしまうのだろう。さっきの論議でどこがうさんくさいだろうか。
まず時間を計るのに光を往復させる、なんて手段は普通使わない、と多分考えるのではなかろうか。仮にそうだとしても次に
「じゃあそれのどこが問題なんだ?」
と聞かれると答えにつまる。振り子時計は(最近は見ないが)振り子の振動で時を刻む。水晶の振動で時を刻む時計が大半の世の中ではあるが、振動とはつまるところ何かの往復である。となれば何故光を往復させていけないのか。
というわけで、とりあえずしぶしぶと光の往復による時間の計測、を認めたとしよう。
となると何がおかしいのか?ここで「日常生活の常識」をふりかえってみよう。「普通に」考えるとさっきの時計のおくれのところの論議は以下のようになるのではないだろうか。
あなたの宇宙船からみて光が往復するとその所用時間が2l/cになるところは文句のつけようが無い。おかしいと思えるのは相手が移動している場合だ。
光が弾丸のようにふるまう、と考えれば、相手は移動しているのだから、光の速度にはその移動速度が加わる、と考えるのが「普通」である。これは仮にあなたの宇宙船がエーテルの中に静止しており、相手の宇宙船が移動していると考えても同様である。光がつたわる速度はcではなく、垂直方向の速度cと横方向の速度vを合成して
(注:この図は間違い) になる。(具体的にさっきの数値をいれると約38.4万km/sec)
つまり「普通のものの見方」に従えば光速は変化して観測されてしかるべきなのである。そして光速がこう変化していれば、光の往復に必要な時間はさっきの式を使って
(斜辺の長さ)2= (垂直な線の長さ)2+(底辺の長さ)2 (注:この計算は間違い)
ごしょごしょ計算すると
t = l/c
従って往復の時間は2倍の2l/cとなり、別に時計の遅れだ、そしてそこから導かれる長さが縮むだ、といった厄介で「非常識」な話しはおこらない。定性的に言えば、光が通る経路が長くなったぶんと同じだけ光の速度も速くなるべきなのだ。
つまりこの一連のやっかいごとは光源の速度に関係なく光の速度が一定であるという仮定に端を発している事がわかる。
「ではそんな”非常識な結論”を導き出す仮定が間違っているんだ」
という事も理論の上からは可能である。しかしこの「仮定」は膨大な実験結果にささえられてしまっていることは前述した。となるとこの「仮定」を放り投げるのはなかなか大変そうだ。
とはいっても
「時計が遅れる。長さが縮む」
なる結論は健全な「常識」をとは相容れない。一体ここで起こっていることはなんなんだ?次にはこの
「何がおこってそうなるのか?」
についてもう少しくどくどと説明する。
この言葉は時として誤解を招きやすい。普通「光速度不変」という言葉が使われるとき、実は二つの意味を含んでいる。1)光源の運動にかかわらず、光は一定の速さで伝わる
2)観測者の運動にかかわらず、光は一定の速さで観測される。
1)と2)は意味が異なる。1)だけであれば、波という波はすべてOKだ。そしてアインシュタインが元論文でいっているのは1)だけであり、2)については導出の途中で言及されるだけである。
この文章を書くために、アインシュタインの論文(の日本語訳)を読んでどうも変だ、と思っていたが某文章(参考文献8)から私が読みとった事を書いてみたい。
「マックスウェル方程式が正しい」
とすれば、それは電磁波である光は波である、と言っている。従って
「光の速さは光源の運動状態と無関係」
となる。しかしアインシュタインが光がある条件下では波ではなく、粒、つまり粒子のようにふるまう、という光量子仮説の論文を提出したのは相対性理論を発表する数ヶ月前だった。つまり相対性理論を考察する時点で彼は少なくともマックスウェルの方程式がある条件下ではなりたたないのではないか、と考えていたわけだ。
となると果たして「光は波だ」と言い切り、それを前提としていいものかという話になる。ちなみにもし光が粒子、つまりボールのようなものだとすれば、そのボールの速度には光源の速度が加算される。
となると先ほどのアインシュタインがおいた2番目の前提が意味を持ってくるわけだ。彼はマックスウェル方程式が厳密には正しくなく、仮に光が粒子の性質を持っていたとしても、その速度は光源によらない、というのを前提に置き、そこを出発点として理論を組み立てたのである。
合わせてある:この「合わせる」というのがまた一筋縄ではいかな話なのだが、とりあえずここではふれない。本文に戻る