題名:❤︎の歌
五郎の入り口に戻る
6:00
翌朝5時半ごろ目が覚める。さっさと体重と血圧を測定する。なんてできた患者だろうと思っていたら、右手で血圧をはかってしまい、昨日の傷跡が内出血をおこしてしまった。がびん。
6時からデイルームで仕事を始める。幸いにも血の気が引くようなメールは来ていない。(と思う。願う)
移動する途中で看護師さんに会う。採血をするので6時半には部屋にいてほしいとのこと。30分ほど働いて戻る。また足から採血だと、足にたくさん穴があくなと思っていたが、腕からやってくれた。左手はもう使えるのだ。体温は36.3血圧も上が120を超え、正常値。
それからご飯までちゃんと働く。家にいると関係ない本を読んだり、ついあちこち歩き回ったりするが効率だけみれば病院のほうがいいような気がする。二日目は大変お腹が減っていたが、だいぶこの生活にも慣れてきた。そこでおしまいになるのがこの世の常というものか。仕事を始めると「やっぱり休みは楽だったな」と思う。昨日までは入院生活はもうこりごりだと思っていたのに。
とはいえこの食事にあまり愛着を持つことはできないな。
8:03
右手をきつく抑えていたバンドをようやく取ってもらえた。私にはよくわからない職種と責任範囲があるらしく、看護師さんはバンドの位置を調節することはできるが、外せるのは医師だけらしい。看護師とは明らかに違う服をきているお兄ちゃんが外してくれた。
このバンドが今回の処置で一番苦しく痛いものだった。だからこれで晴れ晴れと言いたいところだが話はそう簡単ではない。穴が空いたところは少し痛いし、腕の血管とおぼしき線にそって違和感が残る。思えば昨日の施術直後、麻酔が効いている時が一番楽だった。
9:44
同じ部屋に多分四人入院しており、私を含めて三人が今日退院。私以外の二人には退院の説明が来たのに私にはまだこない。採血の結果を見たりとかいろいろあるのだろうか。などと文句を言っていてもしょうがないので真面目に働く。やはり頭がぼんやりしている。トイレに行きたくなる。もうあの機械を使わなても怒られないだろう。
同室からはどんどん人がいなくなる。入院時に使ったあれこれを片付ける人までくる。なのに私には声がかからない。だんだん不安になる。そっとカーテンの外に出てみる。今日退院した人のエリアはカーテンが全開になり、ベッドがきれいに片付けられている。ひょっとすると私はまだ退院できないのだろうか。あわてて今までにもらった紙を見直す。いや、頭がボケているのでなければ確かにこれで処置は終わり退院のはずなのだが。
そう思い荷物を片付け始める。あとは着替えればすぐにも退院できる。しかし本当に退院できるのだろうか。人が減ると病室内の空気が入れ替わり爽やかになる。旅館のチェックアウト時の雰囲気だがなどと考えているうち
「すいません。遅くなりまして」
の言葉とともに看護師さんが来てくれた。これで晴れて退院である。袋にいれた心電図計測器を返す時「ちょっと待ってください。中に小銭入れているので」というと「そうしてらっしゃる方多いですね」と言われる。
10:50
病室を後にし、一階に降りる。会計機に向かう。カードをいれる。すると予想したとおりとんでもない額が表示される。内心動揺しながらクレジットカードを使い支払いを済ませる。
実は入院する前に、支払いが天文学的な額にならなくてすむような書類を会社から入手していた。そのため家に帰ってから
「ひょっとしてこの額は過大なのでは」
という疑念に取り憑かれ、私は再度病院を訪問することになる(そしてそれが過大ではなかったことを知る)しかしこの時は
「いやー、もう金払ってここから出してもらえるんだったら喜んで金払います」
状態だった。久しぶりに回転ドアをくぐり外の空気に触れる。空気が冷たい。しかし久しぶりに外を歩けること自体がうれしい。おとなしく地下鉄に乗って家に帰る。
家につくと息子が出迎えてくれる。お父さんは元気だよと伝える。お昼の時間なので、晩御飯の残りを電子レンジに突っ込む。私が数日前に作った鮭大根。ごはんをちょっとツッコミかき回して食べる。ああ、わかりやすい味噌と塩鮭の味って素敵。4日間でこれだから長期入院とかしたらこの衝撃はどれくらい大きくなるのだろう。
点滴もないし、トイレに行った時いちいちカップを取り出さなくてもよい。ああ、普通の生活って素敵。
しかしなあ。血管に穴あけて細い管通しただけでこんなにあれこれ感じるのだから、心臓のバイパス手術とかやったらどれだけ大変なのだろう。入院前にカテーテルによる処置について少し調べた。この方法が開発されたのはそう遠い昔ではない。カテーテルをいれバルーンで膨らます治療が行われたのは1977年であり、血管を広げるステントが動脈をバイパスする治療より有効になったのは2002年、21世紀になってからである。 ということは私があと数十年前に生まれこの病気にかかっていたら動脈バイパス手術だったかもしれない。全身麻酔で入院期間は数週間に及ぶとどこかで読んだ。医療技術の進歩に感謝である。刑事コロンボで心臓発作を起こし手術を受けていた老先生がいたな。今や私もあの先生の年頃か。
などと考えながら仕事用パソコンを立ち上げる。腕に残る違和感がそのまま、普通の日常に戻っていく。
前の章 |