日付:1999/2/26
3章さて2月27日と28日の週末あたりから、私は妙な行動をとりはじめた。自分でも解らないのだが、それまでは週末というと一日は必ず寝ていたのだが、この週末から寝ているのはせいぜい半日くらいで、どこかに行きたい、という気になってきたのである。
一つにはようやく寒さもゆるんで(三寒四温というくらいで、いったり来たりが激しいのだが)外にでようか、という気分になったことがあげられる。しかしそれだけだろうか。
深く考えてもしょうがない。土曜日はいままで長年関東エリアにすんでいながら行ったことのなかった戦艦三笠を見に行った。この戦艦が横須賀にあることは知っていたのだが、例によって例のごとく近くにあると思っているとなかなか腰を上げないのである。いきなりそういう場所を見に行ったのはあるいは心の中にどこかに移り住む気持ちがあったのかもしれない。
私が大学生の時に松田聖子という歌手は一種アルバムをだせば、その出来不出来に関してしばらくの間話題になる、といった売れっ子であった。その彼女が私が2年生の時に出したのが「赤いスイートピー」という名曲である。その歌詞のように私はようやく春めき始めた-この時期の暖かさは偽りの暖かさとも言えるのだが-光のあふれる電車に乗って横須賀に向かった。
いつも通勤に使っている京急なる電車の路線図を見ると、ちゃんと横須賀に行くようになっている。いつも通勤にこの電車を使っているが、その電車の行き先に書いてある「新逗子」だの「浦賀」だの「三崎口」だのは名前だけみて結局一度も行ったことはないのである。今日はあわよくばその終点がどんなところか見てやろう、などという妙な事を考えていた。
改札をくぐると電車がきた気配だ。いそがなくちゃ、、と思って階段をかけおりてはっと気が付いた。今日は逆の方向に行くんだ。こっちのホームじゃない。
頭をかきながら反対側のホームに行った。しばらく座ってぼーっとする。そのうち来た電車に乗った。なんだか知らないがこの電車にのっていけば横須賀の方に行くだろう。電車の中は適度に混んでいる。人がたくさんいるが、おしあいへしあいではない。ちょうど電車の中の人間を観察するのに良いくらいである。休みの日の午前中だからいろいろな人がいる。ふと隣に座っている男が広げている本を見るとそれは某国立大学の入試問題集だった。そういえばそんな季節である。生まれて初めて受験で東京に来たのは1981年だったか。書き出すととまらないくらいたくさんの事を覚えているが、2月の末に某私大の受験で来たときはとにかくやたらと寒かった覚えがある。おまけに泊まったのはオリンピック村とかいうところで、6人部屋。夜中にいびきをかく奴、寝言を言う奴、歯ぎしりをするやつがいて、一人で東京に泊まっている、という緊張感も手伝ってほとんど眠れなかった覚えがある。受験の結果はさておき、寒い中を睡眠不足の状態で試験に臨み、まる一日生まれて初めての大学入試に挑んだ私は帰りにはよれよれだったことを覚えている。帰りにそれまであまり買いもしなかった「ぶーけ」という少女漫画を買って読んでいた私はとにかく疲れていたのだろう。
あのときがんばっておいたことは、当時は何も考えていなかったとは言え、今になれば結構ありがたいことである。とくにこうして職が不安定となればなおさらだ。そんなことは別にしても後知恵の教えるところによれば何をしていてもそれがどれだけ楽しくないものであっても一生懸命やらなければ後で後悔する、というのが今のところ導出される経験則ではあるのだが。
そんなことを考えながらながら、また例によって例のごとくPB2400などを広げて私は何かを書いていた。ここのところ妙な執筆意欲もわいているのである。冷静にこうした精神状態の遷移をみれば、単に鬱状態から躁状態に変わっただけという気もするのだが。
さてまもなく電車は終点についた。しかし私が見逃したのでなければこの電車はまだ横須賀についていないはずだ。となればここからまた電車を乗り換えて先にすすまなくちゃ。
そう思ってパワーブックを閉まって外に出てみた。大体の人はここで降りて(これはよろしい)ひたすら出口に向かっている。何かこれは変だ。泡をくって路線図をちゃんと見直してみれば、この路線は横須賀の手前で分岐しているのである。従ってここでいくら待っていても結局一つの方向からしか電車はこない。そして行く道も一つだ。この道をいくら進んでも目的地には着かない。
しょうがない。まあ別に先を急ぐ理由があるわけでもないのである。道が間違っていたらやり直せばいいだけだ。のんびりと反対方向の電車を待って来た路線を戻った。そして乗り換えて今度こそ横須賀中央に着いた。
さて今日いきなりでてきたのは良いが、実は場所も何も全然確認していなかったのである。あとから考えれば私は横浜エリア一帯の詳細なドライビングマップを所有していたのだから(最初の引っ越しの時に使った奴だ)それをみればよかったのだが、「まあ有名な公園らしいから、現地に行けばいやというほど案内があるに違いない」と勝手に思いこんで何もみてこなかたのである。
さて駅をでるとさっそく案内がある。しかしこの町の通りはわかりやすい格子状にはなっていない。元が海岸と山の間にできたような場所だから当然といえば当然だ。まあなんとかならあな、と思って最もたよりにならない自分のカンに従って歩き出した。
途中で昼飯を食べたり、まあのんびりと歩いていた。気候は幸いなことに歩いていてちょっと熱くなるくらいである。(最も真冬用のジャケットを着ていたのだが)私はてけてけと歩いていった。そのうちなんとなくあちらに海があるのではないか、と思える場所にでてきた。記念艦と言っても一応船なのだから海の近くにあるに違いない。そう思って私はひたすらその方向に歩み続けた。まもなくなんだか公園の様なところにでてきたが、どうもそこは公園は公園でも三笠とは何の関係もなさそうな平和そうな公園である。しかたがない。歩いて15分とかいてあったからまだ15分あるいていないのだろう。(私の時計は電池が切れて朝の6時20分でとまったままだ。)私はひたすら海岸にそって歩き出した。
そのうち妙なことに気が付いた。行く手には戦艦のマストどころか、工場地帯が見えてきたのである。公園というものは普通人が遊ぶためにあるのであって、工場地帯の真ん中にはあまりたくさんない。どうも私は目測をあやまって海岸沿いを明後日の方向に歩いているのではないか、という強迫観念にとらわれはじめた。仮に方向を間違えているとすれば、確かにいつかは戦艦につきあたるだろうが、それは本州の海岸線を一周したあとなのである。
道を間違えていればどれだけ一生懸命前に進んだ所で目的地に着くことはない。。私は思いきって回れ右をした。そして元来た道をそのまま戻るのはなんとなくいやなので、ちょっと市内の方に向かって歩き出したのである。
すると先ほどちょっとどちらに行こうか迷ったところにちゃんと「三笠公園」と書いてある。これを見過ごして明後日の方向に歩いていった訳か。。まあ今日は気温も高いし、天気はいいとは言えないが、雨が降る心配もなく。これで目的地にたどりつければ「ご機嫌な散歩」と自分に言い聞かせればすむだけのことであろう。
さて矢印に従って歩いていくとそのうちマストが見えてきた。灰色にぬられたそれはヨットなどのものであるわけがない。そこからいったん建物の陰に入って見えなくなったが、建物が消えた時に現れた戦艦の姿は威圧的だった。「敵艦見ユ」とはこのことか。それまで日本海海戦について書かれた本の後書きに「久しぶりに見る戦艦三笠はなんと小さいことか」と書いてあったのを覚えていた私はきっと今日出くわすのはとても小さな船であろう、と思っていた。ところがなかなかどうして結構大きな船であり、結構強そうだ。Battle shipという名前はだてではない、ということか。第2次大戦にはこの船の何倍もの大きさの戦艦が走り回っていた。それを見送った時の人々の感想が「こんな大きな船になにかがあるなんてのは考えられないことだ」であったのも決して所以のないことではないのだ。
最初どこでチケットを売っているかわからずにちょっとうろうろした。券を切る役目をもっているのは小さな小屋の中に座っているおじさんだ。彼はとても丁寧に挨拶をして、そして途中でビデオの上映があるから是非見るように、と勧めてくれた。その口調や物腰には覚えがあった。多分彼はRetired Navyなのだろう。
そこからゆっくりと艦内を見て回った。今日は正直言って全く期待しないできたのだが、その予想を見事に裏切るくらい中の展示や艦そのものは興味深かった。今まで日本海海戦の本を読んでも今ひとつ戦艦の構造自体がわからなかったのが、ようやく理解できたような気がした。私の直前に多分50-60の4人連れの方々が入っていって、展示室で一人が説明をしていた。そして「ここを丁寧に見だすと一日はかかります」と言っていたが全くその通りだ。
長い時間と広い範囲に渡る海戦のようすを有名な敵前回答まで含めて一度に表示する大変コンベンショナルな動く模型と掛図の組み合わせの展示があった。これには感心した。おそらくこれを作った人はずいぶんといろいろ考えたに違いない。今ならばきっとコンピューターのディスプレイの上で全部作ろう、と考える人もいるのだろうがこの展示のわかりやすさにはなかなかかなうまい。板で作った海の上を動いていく模型や、水柱、発砲の光の表現がとても懐かしい感じがした。
それよりもなによりも私の興味を引いたのは、この記念艦が戦後の一時水族館とダンスホールになっていたことである。それ以前に「痩せても枯れても戦艦なのだから、よく撃沈されなかたな」と思っていたのだが、その理由はすぐにわかった。この船は既に陸上の一部と化していて爆破はできても撃沈はできないのだ。そうして第2次大戦を生き残った戦艦も、戦後の動乱の波には勝てなかった。誰が考えたかしらないが、戦後に全ての砲を外し、後部主砲塔のあった位置に水族館をつくったのである。水族館とはいっても直径数Mの円筒のなかに何が展示できたのだろう。おまけにその後ろの煙突だの艦橋だのの場所にはほったてごやのようなものがたってダンスホールとなっている。少し前に今社交ダンスにお熱をあげている母が「昔はダンスホールに行くのは不良だった」と言っていたことを思い出した。この戦艦の上で踊ったちょっと不良がかった子供達もいたのだろうか。
それから朝鮮戦争がはじまると鋼材が高騰しこの記念艦を管理した業者が勝手に鋼材を売り飛ばしてしまったとある。大昔の遺跡もだいたいこうした類で跡形もなくなっていくようだ。大理石がふんだんに使われた建物が倒壊すれば、いつのまにかその大理石は他の建物に化けてしまったり。かくのとおり人間がやることには古今東西似たようなこともけっこうある。
それを修復するのはかなり大変な工事だっただろう。しかしそう考えると今表面に見えている構造物はほとんどすべてが戦後に復旧されたもの、ということになる。まあしかし国宝となっているお城だのなんだのもだいたいは定期的に作り直しているようなものだからあまり気にすることもないか。
思いも掛けず興味深い時間をすごして家路についた。今度は行きよりもはるかに短い時間で駅にたどり着く、、と思ってあるいて行ったらついたのは行きに降車したのとは別の駅だった。ちょうど一駅分余分に歩いてしまったわけだ。それも春の暖かさを予感させるようなひであったから気にもならない。
そこから家までは電車で一本だ。ついでに夕飯まで食べてアパートに戻った。このホームページをしょこしょこと作っていればいきなり部屋の電話が鳴る。ナンバーディスプレイは「非通知」を示している。誰だこれは?だいたい私の部屋の電話は滅多になることがないのである。着信記録をみると私が働いている昼間に週に数件電話がかかっている。それらは多分前のこの番号の使用者にかかってきたものかあるいはマンションの売り込みだ。しかし普通そうした電話は(何故かは知らないが)夜にはかかってこない。
不思議に思いながら受話器をとった。相手は某人材紹介企業の人であった。彼は非常に端的に用件だけを述べる。そしてこの日はとりあえずT社に応募をすること。またその他に6社ほど募集要項を送ってくれる、と言った。私は電話を切ってから考えた。ようやく動きがでてきたようだ。名古屋で6社というのが何を意味するかわからないが(彼が具体的にあげたのは某コンピュータメーカーの名前だったが)とにかく選択肢は0ではないようだ。
今回職を探す方法についてはいくつか考えた。就職情報誌を買うこともその一つであるが、やはりその道のプロにたのむことも必要だろう。ただしそれまでの経験で「その道のプロ」にもいろいろ得意分野と不得意分野があることがわかっていた。従って闇雲に頼めばいい、というわけでもないらしい。今回はとにかく名古屋方面で職を探すことを考えていたから、その方面に強いプロを頼みたい者だ、と思っていた。私は朝の8時に出勤するが他の人は大抵9時半までこない。すいているから、ちょっとインターネットで勉強するついでに余計な検索をしてもあまり迷惑にはならない。私はあれこれ探していた。この時は実はある企業を特定して検索をしていたのである。それは某自動車会社のT社であった。
T社の関連会社に以前応募した話は前述した。そのうち一社が(私の中で勝手に)再浮上していることも前述した。そんなことをつれつれ考えていると「考えてみれば母体のT社にはまだちゃんと応募したことが無いじゃないか」と思い始めた。今度職をうつるとすればもう次のチャンスはないだろう。となれば笑われようが蹴られようがとにかくTryだけはしておくべきだ、そう感じ始めていた。もう一つ今の職場で「親会社と子会社の立場の差」というものを実感していたのも母体のほうに応募する気にさせた原因かも知れない。親会社の人間はただそれだけの理由で子会社の人間にいばりちらすことができる。個人の能力も資質も努力も何も関係はない。ただそれだけが重要なのだ。仮に親会社が1+1=3といい、子会社が1+1=2じゃないですか、といっても結論は3になるのだ。「泣きつき」会社にいったところでまさか母体の会社に派遣されることはなかろうから、今ほどひどい目にはあわないだろうが、それでもここは少し気にかかる。
さてそう思ってT社のホームページなど見てみると確かに採用をしているということは間違いない。律儀に「何年度は中途採用をこれだけします」と書いてある。ところが私の探し方が悪かったせいなのかどうか今だにわからないのだが、「応募したい方はこちらへ」という情報だけはどこをめくっても書いてないのである。英語版の募集だけには書いてあるから、一時は是全部英語で書いてこのアドレスにおくってやろう、かと思ったほどである。しょうがない。なんとかアクセス方法を探さなくては。
そう思って今度は全文検索型のサーチエンジンを使って検索をかける。なのに不思議なことだが採用情報がでてこない。次には名古屋エリアの「その道のプロ」の会社を検索しだした。すると確かに何社かあるようだ。まずある会社のホームページをみると確かにそれらしき求人が乗っている。ただし会社名はふせてあって、ここは「登録していたけると見れるようになります」ということらしい。登録など別になんでもない。私はさっさとホームページ上から必要情報を記入して「送信」ボタンを押した。1月29日の金曜日である。
さてこの週末は願書を書くのに忙しかった。普段ほとんど手で文字をかかない私にとって履歴書を書くということは大変に疲れる作業なのである。この履歴書なるものに関してはまたこれがいくつが伝説がある。「書き損じたら全部書き直せ」という話しもあるし、「ワープロでOK」という話しもある。実家で履歴書を書いていたときは内の母がのぞき込んで「あら。毛筆で書かなくて良いの?」と聞いた。私は直筆で書くよりはおそらくなんらかのワープロでかくべきなのだろうが、幸か不幸か手元にフォーマットがない。いつものことながら中学校からの卒業年月をちゃんと計算するのは面倒なしごとだ。おまけにたいていの場合「学歴」か「職歴」を書き落としてしまう。しかしこの2語がないからといってそれでふるいにかける会社もあるまい。
金曜日の時点では私のこころは「もう名古屋に帰って働こう」ということでだいたい固まっていた。そりゃ名古屋にはあまりExcitingな仕事はないかもしれないけど、田舎のほうがまあのんびりできるし。とにかく今の派遣での仕事にくらべればなんでもましだ。私はとにかく疲れ果てて気力が完全につきていたのである。そう考えて「Uターン・Iターンビーイング」なる雑誌まで買っていた。この雑誌はなかなか面白くて、テックビーイング(これは基本的に技術系向けの就職情報誌だ)ではまずお目にかかれないような求人を目にすることもある。特集では「漁業に転職したい人」というのをやっていた。
さてそのUターンビーイングにまたSの子会社の広告が載っていたのである。まあものはためしだ。この会社の系列とは全く相性が悪いらしいが、とにかく履歴書くらい書いても問題はなかろう。多少疲れるだけのことだ。そう思って、まあこのSにだして、それがだめなら例の会社に泣きついてみようか。。と考えていた。例の携帯の会社はまあ仕事はおもしろそうだけど、勤務地は横須賀だし、おまけに外資系だし。今回ソフトウェア系ということで関東エリアの会社をえらんでペテンにかけられたばかりじゃないか。少しは過去の経験から学ばないとばちがあたるというものだ。
翌日の土曜日はいい天気だったし、暇だったので映画を見に行った。そしてその映画-Armageddon-は私の頭をチョットだけ別の方向にまげることになった。その映画は米国で批評家の酷評をあびたらしい。しかしそんなことは私にとってどうでもいいことだ。その映画に描かれている人達はみな力一杯働いていた。簡単な仕事を時間をかけてだらだらやって。おまけにやることがだんだんなくなっていっても仕事をしているふりをしなくてはならない、そうした境遇が長く続いている私にとって能力のかぎりをふりしぼって働いている人達の姿はとてもつらいものなのだ。私にはあれができる。言うだけではなくてちゃんとやったこともある。なのに今はそのチャンスがない。
あるいはこの映画をみて、感動の涙を流した人は多かったかも知れない。私は自分が泣いたかどうか覚えていない。しかしもし泣いたとすればそれは別の種類の涙だっただろう。
日曜日に願書を何枚書くか考えた。そして携帯の会社にも出願することにした。結局どこに落ち着くのかわからない。でも前に進もう。
さて次の週は頭のなかで3社をぐるぐる比較して暮らした。今まで何度かこういうシチュエーションになったことがあるが、実はこういう想像というのはほとんど無駄である。実際何をやるか、というのは相手の顔をみて話をしない限りわからないのだ。おまけに会社がどんなところであるか、ということすら実際にいってみないことにはわからない。つまりこうして想像しているのは月の裏側のクレーターの配置を想像しているようなもので、無駄な時間つぶし以外の何物でもない。しかしその「無駄な時間つぶし」こそが今の私に一番必要なことなのだ。会議はときどき主催者の演説会と化して延々とつづいていく。まだテンポよく言葉が流れるならともかく、とぎれとぎれで意味不明の言葉を夜遅くまで聞いているのは実に精神の衛生上よろしくない。精神を破壊から防ぐためにいろいろな手段を開発したことは前述したが、この「3社の比較」も大変役に立った。どうせ会議では何も決まらないのだから、聞いていなくても何も問題はない。ただ給料をもらうために、おとなしく会議終了まで黙って座っていればいいのだ。
さてその週の週末は、合コンのリターンマッチとバンドの練習のために名古屋に帰った。このときも風邪気味で前夜はひどい悪寒におそわれた。それでも合コンにバンドとなればきゃーきゃーはしゃいで飛び回るのが悲しい性という奴である。私はよれよれしながらアパートにたどりついた。楽しいことであればあまり疲れ果てない、というのは本当だ。しかしその効果を上回るほど私の体調は悪かったのだ。さて明日は会社だ、、と思って郵便受けをのぞくと封筒が一つはいっている。差出人は見たことのない人の名前でしかもうすっぺらい。住所は愛知県だ。それをみた瞬間「ああ。Sの子会社はだめだったな」とわかった。
相手が興味をもてば電話を掛けてくる。不合格の場合は必ず手紙だ。(不合格通知を書留でおくってくるのは天下のお役所企業NTTと宇宙開発事業団だけだが)そして相手の住所が愛知県であること言うことはこれはSからの通知なのである。
予想したこととはいいながら、この早いレスポンスには驚かされる。投函したのは日曜日。そして今日も日曜日だ。火曜日に相手についたとしても、おそらく木曜日には向こうの返事が投函されただろう。担当部署の管理者にこの願書が見られたとはとても思えない。おそらくは年齢で自動的にはねたのではなかろうか。中にはいっている紙には「前向きに鋭意検討させていただきましたが、まことに残念ながら。。」と書いてあった。これほどしらじらしい定型文書も珍しいのではないか。前向きに年齢だけ見させていただきました、ということなのだろうか。
さて相手が誰であれ、ほめられればうれしいし、けなされればうれしくない、というのは私の信条の一つである。人間みがってなもので、仮に相手を軽蔑して、「どういう価値基準をもっているのか全く不可解だ」と思っていて、しかも相手を大変嫌っていてもその人から誉められればうれしいのである。おまけに相手からあわよくば誉められたい、という願望をもつものだ。嫌っている相手に対してさえそうであるから「もしかしたらいいかも」と思っている相手から簡単にけっ飛ばされるのは望んでいた結果でないことはもちろん、全くうれしいことではない。私はさらによれよれしながら、そしていろいろな妄想にとりつかれながら浅い眠りについた。
次の週には一つよいことがあった。インターネットから登録した「その道のプロ」から「貴殿のご経験からいたしますと、ご紹介や情報提供出来る企業がいくつかあるかと存じます。」というメールをもらっていたのだが、そこから登録用のフォームが届いたのである。これが何故いいことか?その時の私にとっては定型文書の「ご紹介や情報提供出来る企業がいくつかあるかと存じます」という言葉であっても救いとなるような状況だったからだ。そして何を約束してくれることではないが、フォームを記入する、ということはどこにも進んでいけないがとにかく足を動かしている、ということなのだ。
それとともに、例によってインターネットをあさっていてT社の募集広告をもろにのせている「その道のプロ」も見つかった。1月になんとかT社のアプローチ方法を探し始めてからかれこれ一月である。かくのとおり職を探すときにはできるだけ手広く探さなくてはならない。さっそくホームページ上から登録を依頼した。これで一つの可能性が消えたが、一つ新しい可能性が増えたわけだ。
次の週末は疲れ果ててねていた。それと実はある電話をまっていたのである。一つは携帯会社からのもの。なかなか何の知らせもない、ということは良い知らせだと思って良いだろう。S社の例でもあるとおり、断られるときは一瞬だ。もう一つは最初に登録した「その道のプロ」の連絡である。フォームはあれこれ考えて記入して先週中には投函してある。どう考えても向こうにはつているはずだが、連絡もないものだろうか。こちらのほうは「連絡のないたよりはいいたより」というわけにはいかないのである。
さて週末は終わり、また一週間の始まりだ。今日はMarathon Meetingの火曜日だ、、と思い気分でメールを読んでいると、「その道のプロ」からのメールがあることに気が付いた。文面は簡単であり、一瞬で内容はわかった。
「Date: Tue, 16 Feb 1999 16:38:08 +0900
大坪五郎 様
キャリアシートをご郵送頂き、ありがとうございました。
確かに当方に届いております。
大坪様のご希望、ご経験に見合う企業がでてまいりましたら、
ご連絡させていただきます。
今後とも、よろしくお願い致します。」
この手の「その手のプロ」からの手紙は以前にも一通もらったことがある。文字面の上の意味は別として言っていることは明白だ。「おまえなんかに紹介してやれるような企業はないよ。書類がついてなくて返事しないわけじゃないんだから、問いあわせなんかしてこちらの邪魔すんなよ」という意味だ。私はパワーブックの蓋をとじながら窓の外の空を見上げた。今日も長い一日なりそうだ。
さてその週、Marathon会議でよれよれになった私の元に一通の封筒が届いた。例のT社に対するアクセスルートを持っている(と思われる)「その道のプロ」からのフォーマットである。このフォーマットにもなんとか記入を行いそして送付しなければならない。しかし私はとても疲れていた。そして気力が萎えかけていた。寒さは相変わらず厳しくまだ暖かくなる気配は見えない。なんとか自分の気持ちに区分をつけて歩きだそうとしてみたがまだどこにも出口度おろか歩き出せる方向すら見つからない。会社での無意味な会議はあいかわらずだし、靴磨きの仕事も相変わらずだ。Sの子会社からはたった二日でお断りをもらったし「その道のプロ」からも「お前に紹介してやる企業なんかねえ」と返事が来た。こうなるともっとも私が忌み嫌っていること-後で悔いること-が頭に時々浮かんだりする。しかしそんなことをしている暇はないのである。と思ってはみても体を持ち上げることすら難しい。だからそのフォーマットに記入することはしばらくできなかった。
さて次の週末。日曜日の晩に私は疲れ果てて早く寝ていた。すると部屋の電話が鳴る。私の部屋の電話がなることは滅多にない。おまけにこのころは私の心身症は最悪の状態であったから下手に意識がはっきりしていれば意図的に電話にでないことすらありえたのである。私が寝入りばなで寝ぼけていたのは幸いだったかも知れない。何も考えずに私は受話器を取った。
寝ぼけてピンぼけの頭がはっきりしてくると相手は「もう一社のその道のプロ」であることが判明した。相手は簡単に挨拶すると「フォーマット送りましたから記入してくださいね」とだけ言った。私の意識が完全に覚醒する前に相手は電話を切った。
電話はきれたが、私の意識は完全にめざめてしまっている。こうなればしょうがない。又寝ようとしても簡単にはできないだろうから、ここは一発フォーマットの記入でもしてみるか。
このフォーマットはこの会社の独自フォーマットである。「その道のプロ」を通じて応募するときはこのフォーマットのコピーを送ってくれるから履歴書をいちいち書かなくて良い、という特典がある。書き込みの注意にも「このまま経営者に渡しますから丁寧に記入してください」と書いてある。とはいっても「間違えたら全部書き直してください」とは書いてないから白ペンキを使って訂正をしても問題はなかろう。私は2カ所ほどなおした。なんといっても寝ぼけている頭で正確に全ての項目を記入するなんてことは簡単にできるわけはない。
翌日私はさっそくその手紙を送付した。まだ例の携帯会社からは連絡がこない。今たたけるドアはここだけだ。
私がメールをもらって少しご機嫌になり、M−Tから電話をもらったのはその2日後である。この時からありがたいことに私を長い間苦しめていた寒気は少しだけゆるんでくれた。私の心が少しだけ解放されたこととあいまって私は少しだけ背筋を伸ばして歩くことができるようになった。そうして日が昇るのがとても早くなってきていることにも気が付いた。私が硬直していようがいまいが、日時だけはすぎていく。
そうした中に受けたのが前述の電話だったわけだ。少なくとも一社は面接までこぎつけたし、T社には曲がりなりも応募できることになった。あとこの「その道のプロ」は6社紹介してくれると言う。正直言って名古屋にそれだけたくさん私が望むような企業がある気はしないが、それでもこの電話とこの週に起こった一連のできごとは私の背筋をもうちょっとのばしてくれた。さて今日は安らかに眠ろう。明日からまた長い一週間だ。水曜日には面接がある。
注釈
Armageddon:(参考文献一覧)この映画で使われていたAerosmithの曲も私のお気に入りになった。本文に戻る
合コン:この合コンの様子(正確にいえば始まるまでの様子だが)は夏の終わり-番外:チゲ鍋会-名古屋遠征その2を参照のこと。本文に戻る
相手が誰であれ、ほめられればうれしいし、けなされればうれしくない:(トピック一覧)人間誉められることに対しては実に単純で可愛いものである。本文に戻る