春になれば

日付:1999/2/26

五郎の入り口に戻る


4章

さて月曜日。よれよれとアパートに帰ってきてみればまたもやAnswering MachineのLEDがついている。なんだ?何が起こった?それともこれも「今は金利が安いですよ。マンションを買う好機ですよ。一度モデルルームを見に来ませんか?」というお誘いだろうか。

ちょっとどきどきしながら再生してみればM−Tからの電話だ。前回と同じく大変落ち着いた声で「日程の変更をお願いします。ご連絡ください」ということだ。実は水曜日に早退する、ということをいつ言ったものやらと思っていた。早めに言った方がいいかな、、と思いつつなんとなく今日を終わってしまったわけだが、早く言わなくて正解だったようだ。

さて翌日再度電話をした。なんでも相手のマネージャーは大変忙しいらしくて予定がなかなか立たないらしい。「木曜日でいかがですか」と言われたが、木曜日は郵政省に出向いて調整会議がある。お客様は午後6時半をすぎると帰りたくなる常識的な人だが、こちら側は「会議は長いことに意義がある」という人達がしきっている。私は「木曜日はちょっと予定がたちません」と言った。

結局金曜日に延期となった。時間は一応4時だが、相手がいうには「マネージャーの予定により直前の変更があり得るので、連絡が付く電話を教えてほしいということである。なるほど。ばりばりのマネージャーはとってもご多忙というわけか。私は電話番号を連絡して電話を切った。

この電話をしていて、最初に電話したときに感じた相手の「異様に平静な声」が私が気にしすぎだ、ということがわかってきた。こうやってあれこれ話していると彼女のとても平静な声がときどき変化する。あまりにプロフェッショナルライクな声は私を恐怖させるが、ちょっと人間っぽい応答は私の気を楽にしてくれる。その後に行われたMarathon Meeting では私はそんなことを考えていた。そしてちょっとだけ妙な事を考えていた。いまの靴磨きはストレスはとてもたまるが、きらくは気楽だ。しかしここから出ようと思えばきっと外はここより寒い所に違いない。いままでこれだけ自分がいる場所を罵倒しながら、いざドアが開く予感に直面するとびびる、というのは何度か経験したことだがまたここでもその感じが戻ってきた。

 

さて、ここしばらく私は「その道のプロ」からの手紙を待っていた。彼が6社送ってくれるという資料はそろそろ着くかも知れない。そう思ってアパートのドアの前まで来ると、新聞受けになにか大きな封筒が差し込まれている。どうやらこちらのほうもついたようだ。

アパートの扉をあけ、かばんを放り投げて着替えをした。半年近く立ってもネクタイを外すのはとても嬉しい瞬間だ。適当にあれこれやって落ち着くと封筒を開けてみよう、という気にもなる。最初はしばらくほったらかして置こう、かとも思ったのだがほおっておいても何も状況が改善されるわけではない。封筒を開けて中を見てみた。

それから数分後、私はちょっと苦笑いを浮かべて風呂にはいることにした。中に入っていたのはT社、父が働いていた会社の子会社であるところシステム会社。従姉妹が働いている会社の子会社のソフト会社。私が断ろうと思ったら断られたT社関連会社のソフトの子会社。それに米国のパソコン会社。さらには名古屋らしくパチンコの機械開発が2社である。T社関連会社のソフト子会社はなんと関連会社のなかで派遣で働くようだ。

ようするにこれが身の程ということだ。この年齢で2度目の転職先を名古屋で探そうと思えばでてくるのはこんなところ、ということか。風呂に入りながら自分が思ったよりも失望していない事に気が付いた。昔職を探している頃だったら失望のあまりしばらく動けなかっただろうが。

年をとると良いことも悪いこともある。昔に比べるとだんだん望む範囲も低くなってきたし、そして身の程もだいたいわかってきたようだ。そしてこの半年の悪夢のような派遣生活を考えたとき仮にそれがパチンコの機械開発であっても今の状況よりはましだ、という気がする。

これから何が起こるか、逆に何が起こらないかはだいたいわかった。さてたゆまずがんばって前に進もう。

 

週は何事もなく流れて金曜日となった。本来面接があるはずだった水曜日には私はとても暇で問題なく午後3時半に帰れるような状態だった。これはもったいないことをしたか、と思ったら金曜日はもっと暇だった。最近大分仕事をするふりにも熟達しきってしまって大変退屈になってきた。従ってこのごろやっていることというのは、机の上のPCにFree BSDというUNIXの一バージョンをインストールすることである。さすがにUNIXはWIndowsなどと違って人には優しくない。彼らに言わせればこれでもめいっぱい優しくなったのだろうが、生まれの違いは隠せない。こんなことをして何になるのか?いままで私は一からUNIXをインストールしたことがない。実体はともあれSoftと名が付いている会社に籍を置いているのだからこれくらいできるようになりたいではないか。一度やれば「UNIXのインストールは難しい」という人間と「いや、最近はインストーラーがついてるから一発ですわ。何の問題もあれへん」という人間の意見の相違は何なのだろう、と悩まなくてもすむわけである。

さてそうやって適当に時間をつぶしている間に3時半になった。私は「おじさんはにげるぞ」と隣の男にいって席をたった。彼には以前から「この日は”よんどころない事情”によって早くかえるからよろしくね」と言っておいたのである。

さてM−Tの担当の女性は、私に地図を送ってきてくれた。これを見るといろいろな行き方が乗っているが、どれが近いのか今ひとつわからない。まあタクシーにのれば良かろう、と思って駅のほうに急いだ。私が働いているビルは品川駅の比較的店が少ないほうにある。タクシーにのるにのにはどちらの出口でもいいのだが、まあなんとなくメジャーなほうがよかろうと思って反対側の出口-つまり山手線の内側の出口に急いだ。

この数日前に私が愛用していた腕時計は突然刻みをとめた。電池が切れただけかと思えばノブをまわしてみてもびくともしない。理由は解らないが完全におなくなりになったようだ。それから今まで私は時計無しで暮らしている。基本的には時計のある場所にしかいないから問題はなかったのだが、この日だけは問題だった。品川駅を横切る通路は半端じゃなく長いのである。案内図には品川駅からタクシーで5分とあるから、3時半にでれば何がおこっても楽勝で4時に間に合うはずだった。ところがこの駅を横切る10分間は計算にいれていなかったのである。いや正確には10分かかっていなかったかもしれない。しかし腕時計を持っていない私には確認の方法がないのである。足を前後に動かしているととてつもない時間がたったのではないか、という妄想にとらわれる。するとますます足は速くなる。最終的に反対側の出口に着いたときには私はほとんど走っていた。

 

タクシーに乗り込んで一息ついた。やれうれしや。まだ20分ある。これでなんとかなりそうだ、、と思って運転手さんに「ここに行きたいんですけど」と地図を渡した。天王洲とかいう駅名が発音できなかったからである。彼は一目見ただけで「ああ。ここね」と言ってくれるかと思いきや、なかなか私に地図を返そうとしない。ハンドルを握りながら地図を眺めて悩んでいる。私は目的地につけるかどうか以前にこの人が人をはねないかどうか心配になってきた。私の心配をよそに彼はじっと地図を見つめている。しばらくしてから私に地図を返して「場所はわかるけど、この地図は間違っていると思う」と言った。

それから目的地までは結構な距離があった。正確にはかれば5分なのかもしれないが、私は泡をくったあまり簡単な引き算すらできなくなっていたようだ。頭のなかで残り時間と4時までに着くことができる可能性をなんども計算した頃に目的のビルに着いた。

あわただしく金を払うとタクシーから飛び降りた。実は面接のまえにトイレにいっておきたかったのである。ビルの中にはいってトイレを探すが不思議なことにどこにも見あたらない。腕時計を持っていないからあまり遠出する気にはなれない。しょうがない。このまま行くか。

 

相手の会社はビルの15階であった。エレベーターを降りると受付に「採用の面接で伺いました大坪ともうします」といって挨拶した。まだ予約していた会議室があいていないようでそこらへんにあるソファーの上で待つことにした。

すわっていてふと背中が丸まっていることに気が付いた。最近の私はこうして背中をまるめて小さくなってい歩いているのである。派遣社員とはこうでなくてはいけない。派遣先に逆らわず、異を唱えず。小さくなって下を向いていなければ商売の成功はない。商売の成功?それはどんな馬鹿な事をやらされようが、とにかく目先の相手のご機嫌をそこねないことだ。それが客先の商売にどのような悪影響を与えようが知ったことではない。こちらの商売というのは人数を多くやとってもらえればそれで勝ちなのである。

しかし今日、この場所では私は派遣社員ではない。採用してもらおうと思っている一人のエンジニアだ。小さくなり、あたりをはばかって生きていく必要はない。そう思い私は無理矢理背筋をのばしだした。

そのうちある会議室に案内された。その会議室の前のロビーには何人かが打ちあわせをしている。皆普通の格好で首から布きれを垂らしている人間など一人もいない。これは実に良いサインだ。部屋の中の感じは、以前の大坪君であれば「んまあ。こんなしゃれたところで働くんだべか」と蕁麻疹を起こしそうなものである。しかしこの半年こうしたビルには大分慣れた。首から垂らす布きれが不要なだけでいいとせねばなるまい。

 

部屋でしばらくまっていると、ノックをする音がする。立ち上がると中年の男性(私も今や立派な中年男性だが)が入ってきた。彼は自分について何も語らなかったので正直いって人事の人間なのだか、あるいは技術の人間なのだか見当が付かない。普通は両者が同席するのだが。。私はなんとなくであるが彼が人事の人間であろうと考えた。多分事前にふるいにかけるために私の値踏みをしにきたのではないかと。

彼は私が送付した履歴書を見ながら「ではあなたが経験してきた業務について説明してください」と切り出した。私が経験してきた業務は大変多岐に渡っている。最近は大ざっぱにまとめることにしているが、それでも大分時間がかかる。まず最初の項目を述べたところで彼はいきなりいくつも質問をしてきた。曰く「何人ぐらいのグループで仕事をしましたか」曰く「具体的にどのような業務を担当しましたか」曰く「どのようなところに興味を持ちましたか」

ちなみに最初の項目であるから説明した業務内容はおよそ10年前にやったものである。正直言って記憶を発掘するのに若干時間が必要だったが、なんとか答えた。実は答えた内容が正解だったかどうか覚えていないところもあるのだが、そこはかまうものか。とにかく相手が目をむかなかった事から見て、多分そんなに馬鹿げた事は言っていなかったろう。

最初の一項目だけでこれれだけ質問がとんでくるとは。。。後の項目はどうなることやら、と思って当初予定したよりも多少細かいところまで説明をした。ところがこんどは一つも追加の質問は飛んでこなかった。最初の会社を辞めた理由は「こちらの意に反して米国に長期駐在を命令されたから」と言ったし、今の会社をたった半年で辞める理由を「はいってみたら人材派遣会社だったから」と言った。この時の相手の反応は大分気になるものだが、彼が内心どう思っていたかは別として軽くうなずいていたのでとりあえずは安心である。もっとも実際述べたとおりの理由であるから、これ以外言いようがないのではあるが。

私の話が一通り終わると相手は彼らの会社の概況を説明しだした。私の観察が間違っていなければ-NTT-Softにだまされていらいというもの、私は以前よりは慎重に、疑り深くなったつもりでいる-彼は極めて正直に彼らの事業の概況、それに私が選択しうるポジションについて語っていたと思う。しかし一つ問題があった。私はTech-Beingに載っていた「新しい携帯関係の開発を横須賀でやる」という募集に応募したつもりだったのだが、結局ある仕事は「日本での開発は局部的なもの。今後どうなるかはわからないが。。勤務場所は品川か大阪」ということである。まあ人材募集の公告に書いてあることと、実際の仕事の内容なんてのの相関関係はこんなものである。彼は正直に勤務地も仕事の内容も話してくれるだけNTT-SOftよりはるかに誠意に満ちているわけだ。

彼とはいろいろな話をした。多分私が応募できるポジションとしてはプログラムマネージャーという、製品について責任を持って米国、あるいは客先と折衝する役目のようだ。彼らが売ろうとしている製品は携帯そのものではなくて、携帯を接続する地上局及び交換機である。

いくつかの質問に彼は慎重に正直に答えてくれたと思う。私が一番気にしていた質問はやはり一番最後にした。(なんとなく気兼ねするような内容ではあったから)「米国のほうはこちらの言うことを聞いてくれますか?フラストレーションがたまることはないですか?」彼は「私も他の外資系の企業にいろいろ友達がいますけど、どこも似たようなもののようですよ」と答えた。

さてこれでだいたい聞くことは双方ねたぎれのようだ。彼は「今日は人事の人間がきていないから、代わりに、、」と言って私にアンケートを渡した。希望する年収とかいろいろ書いて送るようである。彼はやはりエンジニアだったのだ。面接の途中から気がついたのだが、人事の人にしては技術的な事情に詳しすぎる(もっとも大変勉強熱心な人事の人、という可能性もあるのだが)「じゃあ人事を通じて連絡しますから」という言葉で面接は終わりになった。笑顔で一礼してその場所を後にした。

来たときにタクシーをおりたところと同じ場所からタクシーにのって「品川」と言った。そうして道をみてみれば行きはずいぶんと遠回りをしたものである。推測だが全部あるいたとしても30分もあればつけるのではなかろうか。まだ時間は5時だ。今日は金曜日だからアパートから一駅離れたところにある中華料理屋に行って「肉野菜ピリ辛炒め丼」を食べる日だ。(実際これが一週間で最大の楽しみ、という気もするが)かたこん、かたこんと電車に揺られながらいろいろ考えた。

昔この会社の競合他社とでもいうべき会社に行って、「交換機の営業じゃねえか」と思って愕然としたことがある。今日の話もまあ大同小異だ。所詮日本で開発をやるわけではないのである。アメリカからはこばれたものの売り込みをするか、あるいはお守りをするかだけの違いである。しかしこの日私は妙にはればれした気分であった。

なぜだろう?と自問自答して一つの答えにつきあたった。今日私は半年ぶりに自分の思うところを正直に述べ、相手はそれをちゃんと聞いてくれた、ということなのである。この半年人の話をろくに聞かず、演説ばかりぶつ人たちに囲まれていた。また前述したように彼らに通じる言葉というのはきわめて範囲が限られたものだけだった。若い人たちはなかなか見所もあったが、彼らには所詮経験しなければ理解できない言葉というものがある。かつての私がそうであったように。

今日の相手はちょっと妙なアクセントをもっていたが、正直に彼の感想やら質問やらを述べてくれた。そしてなによりもこちらの話をちゃんと聞いてくれた。以前あちこちに面接に言ったときはこんなことで感動したりはしなかった。逆に以前だったら今日の帰りはよれよれと杖にすがってあるいていたかもしれないのだ。これは今がひどく抑圧的な状況にある、という私の愚痴を補強するものなのか、あるいは所詮喜怒哀楽は周りの環境に左右される相対的なものだ、ということなのかはよくわからない。

その日食べた肉野菜ピリ辛丼はとてもおいしかった。一つだけ確からしさを少しましてきたことがある。たぶん私はここにそう長くいなくてもいいかもしれない。今日の面接の結果がどうかはわからない。こうしてへらへらと面接をしてあとで丁重にお断りをもらったことは何度もあるのだ。しかし歩み続けること、それが今の私には必要なのだ。

 

その週末は名古屋に帰った。日曜日はみんなでバンドの練習だ。大声で歌ったり、くねくねいいトシをした中年男が踊ってみたりしてごきげんになった私は午後8時頃アパートに戻った。今接触がある「その道のプロ」はだいたい土曜日か日曜日に電話をしてくる。Answering MachineをみるとLEDが光っている。私としては本来「子会社とパチンコ屋」に対する応募の意志の有無を伝えなくてはならない。さてはその電話か、と思って緊張して再生すれば「なにー。名古屋にかえってりゃーすの?」という姉のメッセージである。なんでも日曜日に弟が姉のところにいくから、私もどうか、というお誘いだったようだ。(姉のために書いておくが彼女は本来こんな名古屋弁は使わない。これはちょっとしたギャグというやつである。)

なぜかちょっとほっとして、ホームページのアップデートなどしていた。それでも時間はまだ早いからかかってくるかなと思ったが結局かかってこなかった。T社の結果を待ってからかけよう、ということなのかもしれない。

 

いずれにせよ、ちょっと休んでよく考えよう。

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注釈