東北の夏祭り-1年後

日付:2000/7/31

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出発

7月31日の月曜日、私は布団の中でごろごろしていた。

月曜日だというのにこんなことができるのは、今日から会社が一週間夏休だからである。連続9日間の休みであるからして、何かをしたいと思う。一応事前に簡単な計画だけはたてていた。最初の二日は寝倒して、今日から東北に祭りを見に行く、というやつだ。従って本来であればそろそろ体を起こしてあれこれ準備をせねばならぬはずなのだが、体はどうしても持ち上がらない。

寝ながらあれこれ考える。私は一人でぶらっといく旅が大好きである。長い連休の過ごし方はほぼそればかりと言っても過言ではない。しかしこうした贅沢な時間の使い方も体力と気力の余裕があっての話である。過去にもいさんででかけたはいいが、そのまま回れ右して帰ってきたことも一度ではない。そう考えるとどうもこの体の重さというのは明るい兆しとは思われない。

この日目覚めたのは6時半だった。旅行に出発する前にあれこれ片づけることを考えれば、あと1時間半は出発できない。しかし今日は平日だ。どの交通機関を使用するにせよ、8時から9時の間に電車にのれば、もれなくあのおしあいへしあいに見回れるであろう。いつもは朝の5時半に起きることでその混雑を避けている私がこの日に重い荷物を抱えてつぶされる、というのはあまり魅力的なプランではない。よし。出発は10時だ、と思い再び布団に横になるとこれがまたよく眠れるのである。昨日とおとといの二日間。どう少なく見積もっても20時間は寝ているというのに。

さて、目が覚めると9時40分だ。私はねっころがったままあれこれの考えにとりつかれる。だいたい別に誰に約束したわけでもないし、予約したわけでもない。もう1日寝たって問題ないではないか。だいたいこの連休を逃せば一生東北に行けないわけではないんだから。

そう考えるとこのまま寝付いてしまうのもそう悪い選択肢ではないように思えてくる。普通であればこうしてぐでぐでしていると夏の太陽がじりじりと気温をあげてきて私を部屋から追い出すことになるのだが、冷房という文明の利器は今のところ太陽にも勝っているようだ(少なくともこの部屋においては)

そういえば、かのマルクス・アウレリウス

「目覚めて仕事にいくのがつらいとき」

の自分に言い聞かせる言葉をいくつも自省録の中に残している。しかしなあ彼は重責を担った皇帝であり、こちらは何の責任も負っていない一介の中年男だ。彼は皇帝の職務を果たす重圧を考えて、床を離れ難くなり、私は一人ののんきな旅行にいくのが面倒だから寝ていたいと言っているのだ。いくらなんでも同じ人間としてこれはだらしなくないか。

 

さて、大坪やい。ケツをあげて起きろ。もう荷物の用意はしてあるんだから、あとは着替えて冷房をオフにし、扉をあけるだけだ。いつだって旅行に行くときは気が重くてうっとうしいもんだが、行ったら行ったで結構楽しいじゃないか。

ふと体をあげると、あとは半分自動的に進むようなものだ。私は外にでると駅に向かった。

 

今回の目的地はとにかく青森近辺。そしてそこで行われるお祭りである。去年同じ時期にいって偶然でくわした、山形の花笠踊りと秋田の竿燈祭りは私の

「祭り」

というものに対する見方を変えるのに十分だった。そう思えば去年見逃した青森のねぶたも観ておきたいではないか。とはいっても連休にはいるまで疲労困憊していた私は自分が観たいものについて、何もしらべていなかったのである。とにかく北の方にいくと青森がある、ということくらいは知っていたのだが。

つれつれと駅に向かって歩いていくと旅行代理店の前にいくつかパンフレットが並んでおり、そのうちの一つが「東北四大祭り」という実に好ましい題であることにきがつく。さっそく一部取り鞄に放り込むとてけてけと歩く。頭がぼーっとしたまま電車をのりついているととにかく東京駅についた。

「とにかく北にいけばなんとかなんべ」

と思い東北新幹線の切符を終点-盛岡だが-まで買う。新幹線にのるのは一時間後。私はさすがに

「ちょっと位置関係を勉強するべい。いったいどうやったら青森につけるのか」

と思い、駅の案内所にある時刻表を手に取った。

先ほど旅行代理店で手に入れたパンフレットを見る限りにおいては、ねぶた祭りなるものは各地で行われているらしいが日程を考えれば今回みることができるのは青森と、弘前の二つのようだ。問題は青森と弘前がどこにあるかである。しばらく路線図とながめっこした私は青森と弘前はほぼ電車で三〇分の距離にあり、盛岡からそう遠く離れていない、という事を知った。今日新幹線で盛岡に着くのは午後の四時過ぎだから、いずれにしても今日は盛岡泊まりになる。あとは明日考えよう。

 

そんな算段をたてると、私は新幹線の待合室に向かった。

 

夏休みであるから子供連れの母親が多い。私の隣にも母と息子がおり、その会話は意識しなくても耳に入ってくる。おもえらく、子供のほうは列車に大変な興味を抱いているようだ。そう思えばこのホームには色々な種類の新幹線の類が入ったりでたり、にぎやかなことである。彼らは「あれが来た。これがかっこいい」と会話をしている。そのうち母は

「○○ちゃん。昨日からジュースとお菓子とアイスクリームばかり食べてご飯たべてないじゃない。そのうち倒れるよ」

と言っているのが耳に入った。私は驚愕した。

私にとって自分で経験したもの以外によく知っている子供の育て方というのは姉の家族のそれである。両者に共通しているのは、ご飯を食べることなしに、お菓子だのアイスクリームの類を口にすることは絶対にできない、という原則である。メインディッシュを食べずしてデザートはなく、その時間が長引けばデザートはだれか他人(兄弟か両親)のものとなってしまう。それどころか出されたものを全部たべないと次の食事すら食べられないのだ。

従ってご飯を食べられずに空腹で倒れることはあっても(実際私は空腹時に階段を下りるのがいかにつらいものであるかを未だに覚えている)栄養のバランスを崩すことにより倒れるなどということは考えも及ばない。

その後あれこれの人に聞いてみるとどうやら多数の家庭で行われていることは、この私の隣にいる母子の家のそれであり、大坪家のしつけ方は特殊な部類に属することがわかった。とはいってもこのしつけ方の利点について疑いを抱いたことが(少なくとも成人してから)ないことも事実なのだが。

 

そんな思いにふけっていると電車が到着したようだ。さてさて。

 

乗るのは東北新幹線だ。仙台を経由して盛岡まで行く。幼い頃毎年夏になると母方の祖父、祖母が住んでいた仙台に行くのが常だった。だからこの路線はあれこれ思い出深い。思えばこの新幹線ができる前、仙台というのは実に実に遠くにあった。

名古屋東京間の2時間はまあなんとかなる。問題は上野から乗り換えての東北本線だった。たぶん4時間はかかったのではなかろうか。そして子供というものは概してあまり辛抱強くない。最初はおとなしくしているが、そのうち自動的に喧嘩を始める。そしてこれは未だに確信を持って言えることだが、喧嘩というのは全く楽しいことではない。ではやめればいいのだが、妙に腹立たしくなり、口が出、脚が出、しまいには涙がでる。

となるとなんとか自分の退屈と戦う方法を考える必要がある。退屈は本人にとっても敵であるが、両親にしてみればもっとたまらないのだろう。大坪家には書籍の購入に関するルールが設定されていた。学習に関する漫画ならいくらでもかってもらえるが普通の漫画はいっさい買ってもらえない、というやつだ。しかし仙台に行く時だけは特例として

「好きな本を買いなさい」

ということになったのである。

さて、と私は考えた。普通の漫画をかう絶好のチャンスであるが、それでは瞬く間に読み終え、またあのつらい退屈との戦いが始まってしまう。できるだけ長く暇をつぶすには。。

その頃何度か父につれられて落語というものを聞いたことがあった。そして落語を聞いていると退屈せずに結構な時間がすぎるものだ、ということも知っていたのである。その夏、私が選んだのは「のらくろ」だった。この本は中程に落語が演じられる場面があり、

「ここをちんたら読んでいれば時間がつぶれるだろう。」

と(愚かにも)考えたためなのだが。

さて、いよいよ当日。東北線に乗り換えである。この日まで我慢して読まないでいたのらくろをさっそく取り出して読みふける。最近は「のらくろ」という漫画はあまり知られていないかもしれない。戦前の作品であるからしてストーリーはきわめて単純。登場人物は左右にだけ動く。従って読み進むスピードは結構早い。

漫画の部分を読み終わったが、仙台はまだはるか彼方、数時間先である。さて、ここからが勝負だ、と思い落語の部分を読む。文章だから絵よりもゆっくりだが、それでも本当の落語ほど時間がつぶせるはずもない。全部読み終わったが、それでもまだまだ仙台は遠い先だ。どうしよう。

父はとみれば、外を見つめている。私は父に聞いたことを覚えている。

「どうやって、外を眺めているだけで時間がつぶせるの」

父の答えはこうだった。

「山をみて、あの山の形はどうだとか考えていると時間がすぎる」

私はふーん、と思った。しかしまさか父と同じことができるわけもない。

 

さて、そのころの幼児体験が尾を引いているのかどうかしらないが、私はこの旅行用にちゃんと本を買い込んでおいたのである。今の私にとって列車に乗っている時間というのは、落ち着いて本を読むための貴重な時間なのだ。その本をひろげてしばらく読む。すると目が文字の上を単に走っていってしまうのに気がついた。どうやら私は眠いらしい。

本を膝の上において目を閉じた。途中何度か目がさめたがまた眠りにおち、、と繰り返している間に本当に目が覚めたのは仙台についた時である。子供のころあれほど遙か彼方、耐え難い時間と思われた東京-仙台間は今の私にとっては昼寝をしている間のうたかたの時間なのだ。時が早く過ぎてしまうのを嘆くべきなのか、退屈して喧嘩して泣かなくていいようになったのを喜ぶべきなのか。

 

仙台を出ると車内はどっとすいてくる。そして各駅停車になるから進行ものんびりだ。さすがにこれ以上は眠れないらしく一応目がさえているから周りの様子などに気を使うようになる。

後ろに座っているのはどうやら小学生の兄弟のようだ。彼らはポケモンの話をしたり、喧嘩したりしながら上手に時間を過ごしている。(そう。彼らは時間をつぶしているのではないのだ)私は目が覚めたのでパソコンなど膝の上にひろげながらぱたぱた打っている。彼らにとってみれば

「なんだこのおっさん」

というところなのだろう。後ろの座席から顔を出してパソコンをのぞき込んでいるのがわかる。私は彼らと話してしばらくの間遊ぶこともできただろう。しかし寝ぼけてちょっと疲れ気味の頭ではそうしたことは思いつかない。そのうち兄とおぼしき方が

「降りなくて良いの」

と聞いてきた。どこかの駅に止まっている時のことである。実際次は終点の盛岡で、乗っている人はそう多くはない。私は

「大丈夫。終点までいくから」

と答えた。そのうち車内販売のお姉さんが来たときに弟とおぼしき方が何か話しかけていた。その内容は聞こえないが、そのうち兄が手に持っていた水風船を弟の頭にぶつけて、お姉さんに

「気にしないでください」

といい、弟をしかりつけていた。

さて、長い電車の旅も終わりに近づいたようだ。電車は盛岡駅に到着した。私は兄弟を見ていた。彼らは子供だけで旅行している、ということは誰かが迎えに来ているはずなのだが。彼らも電車を降りてきょろきょろとあたりを見回している。

そのうち母親とおぼしき女性がやってきて、弟の方を抱き上げた。私は安心して階段を下りていった。

 

もう夕方になっているから今日は宿を探して寝るだけである。駅の周りを一回りしてようやく旅館を紹介してくれる場所を見つけた。盛岡でもお祭りが行われるようだが、あさってからだから宿探しはそれほど大変でもない。私は礼を言うととことこと歩き出した。

本来であればこの地は横浜よりも涼しいはずである。少なくとも一週間前の

「全国の天気」

ではそうだった。ところが何の縁か知らないが昨日あたりから太平洋高気圧とフェーン現象のコンビネーションは東北、北海道地方を関東以上の灼熱地帯に変えていたのである。だから外を歩くのはあまりうれしいことではない。

 

途中で一度方向を見失った。街角で地図を広げて考える。そして歩き出す。この通りから少しはいったところにあるはずだが。あさってになると祭りが通るであろう大通りにはすでにあれやこれやの準備がなされている。どんな祭りなのだろうか。。。などと考えている間に「映画通り」という通りとの交差点に突き当たった。その名の通り交差点の角には映画館が見える。

さて、ホテルはどこだ、と思って地図を広げると。。。どうやら私は行きすぎてしまったらしい。

私は回れ右をすると今来た道を戻り始めた。西日は私の正面から容赦なくてりつけてくれる。さっき「祭りの準備か」と感心ながら通った道をそのまま戻る。さっきはいくばくかの感慨に耽ながら通った道も2度見たいと思うほど興味深くはない。それでなくても気候は快適というにはほど遠い。自分の愚かさを呪いながら道を戻るがホテルは見つからない。再び地図を広げる。私はまたもや来すぎてしまったようだ。

結局ホテルを見つけたのは同じ道を3度往復した後であり、その場所は私が最初に

「来すぎてしまった」

と思ったその角から少し向こうに行ったところにあった。OK。自分が間抜けだということは物心ついた時からしってるじゃないか。とにかく今は荷物を下ろして冷房をつけよう。

 

このまま寝てしまいたい衝動にも駆られるが、そうすると後の結果は恐ろしいことになる。立ち上がると外に出る。夕飯には少し早いから、少しぶらぶらすることにしよう。

少し歩くと盛岡城跡についた。石垣の間に作られた坂道を一歩ずつ上っていく。お城はもうなくなってしまったが、この石垣は昔と変わりない。となれば、江戸時代には、同じように西日に照らされて坂をだらだら上っていく武士なんぞがいたのかもしれない。

徳川時代の300年、日本国内でほとんど戦いは無かった。となると城などというものは

「お役所」

でしかない。そこに毎日勤務するためこの坂を上らされるわけだ。下から上を攻めるのは大変だから、お城というのは少し高い位置にある。しかしこのご時世、どうせ敵がせめてくるわけもないのだから平地に作ってくれればいいものを。

そんなに急な坂ではないといえ、行く先に頭の痛い仕事が待っていることを知っている、ってな場合には足取りが余計重くなっただろう。そして案の定恐ろしいことになり、とぼとぼと帰るときには、下りの坂道が返ってつらかっただろう。などと「勤め先」で悲惨な目にあう立場を想像してしまうのは私が無能なサラリーマンであるからなのだが。

 

石垣の上は小さな公園のようになっている。日差しは依然として厳しいが、風にはどこか涼しげな気配がある。歩いていくといくつか石碑があることに気がつく。かなり昔に立てられたものだろう。漢文で書いてあるので全く読むことができない。解説文書もないことを観れば、それほど歴史的に意味があるものでもないのかもしれない。

この石碑が建てられた当時には、さぞかし立派な意味が存在していたのだろう。そしてそれに関係した人は

「この石碑によって、我々の○○(不詳)は末永く語り継がれることになるのだ」

と思ったかもしれないが、今や誰も読む人もいない。仮に読んだとしてもそれを気にとめる人もいない。

少し先に行くとなんらかの銅像の台と思われるものだけが立っている。像がないのはともなく、台に埋め込まれていたと思える文字もきれいさっぱりなくなっている。これには解説がついていた。なんでもいつかの戦争で偉勲を立てた男の銅像だったが、第2次大戦中の金属供出によって溶かされてしまったと。

文字がきれいに読める石碑の方は誰も読まず、台しか残っていない銅像の方が現代文で解説されているのは皮肉なことだ。とはいってもその軍人が何者だったのか、何を考えたのかに思いをはせる人はいないし、時代はかわり戦争での偉勲というのは逆に皮肉な意味を持つようにも思える。もっともこの場合明らかに本人はすでに死んでいるのだから彼にとってはどうでもいいことだ。解説がつこうが、銅像が溶かされようがそれは

「別の世界の話」

でしかない。

 

そんなことを考えながら城跡を一巡りする。盛岡をとりかこむ山々の眺めは大変よろしい。頭の痛い仕事に悩む役人武士にも、この眺めはなにがしかの慰めになったのだろうか。

 

さて、と城を降りると今度はご飯をたべる場所を探さなければならない。何か面白いものはないかと思っている間にキャバレーだスナックだが林立する場所にきた。こうしたとこに飲み屋しか無いかと思えばそうでもない。ふと見つけたちょっとかわった感じの料理屋にはいる。

店の入り口にはたくさんの写真がはってある。見たところ有名人の写真なのか、普通の大学生の写真なのかわからない。おそらく両方はってあるのだろう。店の中には一組のカップルがビールなど飲んでいる。

メニューを観ると私が愛するビビンバがある。下手な焼き肉屋ではビビンバとはご飯のかわりのように思われている節もあるが、米国の韓国料理屋で食べるビビンバは立派な食事である。ここでは「店長おすすめ」などと書いてあるところをみれば、きっと結構なものがでてくるだろう。さっそく注文する。オーダーをとってくれた店長とおぼしき男は帰り際に「すだれ」のようなものをおろしていった。こうなると先ほどうっすらと見えていたカップルの姿は全く見えなくなる。店のインテリアなのかもしれないがプライバシー保護の意味もあるのかなとふと考える。こうした狭い都市ではどこに言っても知り合いにでっくわす可能性がある。そして人に知られず会いたい相手もいるだろう。

まもなくでてきたビビンバは上に乗っているメインの食材が何か解らないことを除けば実においしかった。ご機嫌になり店をでる。

外は日が陰り少しだけ涼しくなってきている。この通りが「映画通り」と呼ばれるだけあり、映画館がいくつか並んでいる。そのうちの一つは

「パーフェクトストーム」

を上映しているらしく、看板には出演者とおぼしき男女の絵が描かれている。確かこの映画には有名俳優が出演していたはずなのだが、その絵からは誰なのか全くわからない。それどころかまじまじと観ていると果たしてこの絵は人間をモデルにして描いたのか、あるいはチンパンジーの類をモデルとしたのかも不安になってくる。

あまりのインパクトにその看板をデジカメに収めホテルに向かう。部屋は涼しく快適だ。読みかけの本もあるし、今日あったことを書き留めて起きたい、、などと考えているうちに自分がとてもとても眠いことに気がついた。新幹線の中であれほど眠ったのに。しかし眠いときには何をしてもろくなことにならない。さっさと寝てしまおうということで8時には寝てしまった。

 

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注釈

マルクス・アウレリウス:「自省録」(参考文献参照)の内容。 この本はもっともっと有名になってもいい、という気がするのだが。ただ学校で教えるには内容が向いていないかもしれない。現実世界といやおうなしに相対する人でなければその意味するところがわからないかもしれない。本文に戻る