日付:2000/7/31
出発 | 弘前ねぷた祭り | 三内丸山遺跡 | 青森ねぶた祭り
三内丸山遺跡翌朝は6時に起きた。理論的にはここでもう少し寝ていることもできるのだが、二日間続いた
「やたらと眠い状態」
もそろそろ終わったようだ。となれば、昨日みた光景が気になる。祭りが始まろうというときに通りの向こう、沈む夕日を背景に五重塔が見えた。特に理由はないがそこに一度行ってみたい。
チェックアウトを済ませると外に出る。日差しはきつくないが涼しいとはとても言えない。地図をみてだいたいの方向は解っていたのでそちらにふれふれ歩いていく。弘前にも私鉄があるようで、その線路に沿って行けば良いはずなのだが。
少し曇りの中をひたすら歩く。そのうちうっそうとした森が見えてきた。おそらくは五重塔の周りに違いない、と思ったらその通り。ただし、実際に境内にはどうやったら近づけるのか見当がつかない。しばらくくるくると見回してようやく道を見つけた。
近寄ってみると確かに五重塔だ。この五重塔というのは結構好きな建物だが、ふと考えるとなんで5重にもなっているんだ、屋根はたくさんあるけど、実はほとんど中身のスペースはないのではないかと考えたりする。もともと効率よくスペースを使おうなんて建築目的にはないのだから、これが言いがかりにすぎないと頭で解ってはいるのだが。
境内をゆっくりと歩いていく。散歩に来ているらしい人が挨拶をしてくれる。こちらも挨拶を返す。考えてみればこれは滅多にしないことだが、そんなに悪い気分でもない。五重塔のゆかりなども書いてあり、ふんふんと読むのだが、さっぱりと頭には残らない。しばらく立って塔を眺める。先日台風で損傷した別の五重塔の復元作業をTVで放映していた。そこには五重塔自体が地元の人の信仰の対象になっている様子が写されていた。この塔にもそのようなことがあるのだろうか。人々はここにきて何を祈るのだろうか。
さて、駅に向かって青森だ。
と、駅まで一直線には向かえないのが知らない土地である。だいたいこちらに違いない、と思う方向に進んで行くのだが正直なところ定かではない。そのうち昨日は全く存在すら感じ無かった所謂飲屋街がでてくる。とはいっても早朝だから誰もいない。看板だけが見える、こうした街は夜にはそれなりに鮮やかに見えるのだが日の光の中で観るとどことなくわびしい。細かいところまで、そして色あせた下地まですべて見えてしまう。
そのうち
「ロシア、ルーマニアから美人が多数到来」
という看板が見えた。それを読むとこの街とその女性達の事を思った。ロシア人、ルーマニア人であれば弘前がそう寒いとは思わないだろう。しかし彼女たちはずいぶん遠くまで働きに来ているのだ。言葉もろくに通じない土地で。歩きながらその女性達の事を少し考えていた。
そのうち見知った道に出る。朝日の中をひたすら歩いていると駅についた。電車まちの間、すでにして朝日が照りつけるホームはとても暑い。ようやくついた電車に乗り込めばそこは冷房というありがたいものが冷気を送ってくれる。
ぼんやりと外を眺めている間に列車は青森に近づく。さて、とこれからの行動予定を考える。まずは宿の確保、それがすめば少しは心の余裕ができるから、ゆっくりと三内丸山遺跡の見物。そして宿にチェックインしてお昼寝。体力も充実したしたしたところでねぶた見物、と一応頭の中で考えては観る。暑さの厳しいシーズンでなくても何泊かすると体力はよれよれと衰えていく。なのに今回は東北とは思えないほど暑いし、とにかく出だしから死んだように眠る毎日だ。この昼寝を抜かしてしまってはとてもご機嫌にねぶたを観ることなどできまい。
などとあれこれ考えてみても所詮相手あっての話だから予定通りにはすすまないのである。列車を降り、観光案内所に向かうとオープンする10分前だ。しかたないからぼんやりまったあげく、ようやく開いた窓口で
「今夜の宿はお願いできますか」
と言えば
「もうちょっと先のところに案内所がオープンする予定なのですが。。まだ空いてませんね」
と言われてしまった。まだ朝の8時半だから、時間が早すぎると言われてしまえば言い返しようがないのだが。
しょうがないから今度は三内丸山遺跡行きのバス停を探す。何人かの人がまっており、私の両親より少し若いくらいの人たちがしゃべっている。会話の内容から判断するに一人は旅行者、一人は青森の人らしい。わざわざ東京から来たがちっとも涼しくない、と言っている。
そのうちバスがやってくる。このバスは本来「運転免許試験場行き」であり、最初は淡々と走っているが、そのうち三内丸山遺跡のガイドが流れる。こうしたガイドのしゃべり方というのは一種独特の抑揚がついている。もちろん文字で書くことはできないが、基本的には平板なイントネーションで、最後が少し下がる、というやつだ。このバスを通勤で使う人は毎日このガイドを聞きながら職場に向かうのだろうか。
さて、そのガイドが終わった頃、やたらと
「三内丸山遺跡」
という看板が見えてきた。ところがその看板を3っつも経過したというのになかなか肝心の遺跡にはたどり着かない。多少不安になったころにようやく遺跡とおぼしきものが見えてきた。
バスの停留所の近くには、ゲストハウスらしきものがある。矢印に沿っていくとここから遺跡まではまだ距離がありそうである。日がぼんやりと照りつけ蒸し暑い中をのろのろと歩いていく。一番近いところに展示館がある。展示館の内容に興味があるのもとにかく、あの建物の中はきっと涼しいに違いない。
中を見て回る。縄文時代の食文化は結構豊かで(少なくともこの辺では)魚も食べていた、というからこんな内陸でどうして、と思ったら当時はこの場所のすぐ近くまで海が迫ってきており、いわばここは港だったということが解った。奥の部屋ではビデオをやっている。野球場建設時の遺跡調査であれこれ見つかって大騒ぎ。結局野球場建設は中止されたとのこと。私が行っていた大学では運動場建設と称して長い間囲いをたてていた。いつまで立っても終わる気配がないから何をしているのか、と思ったら、半分以上の期間は遺跡調査をしていたとのこと。その後運動場が別の場所に作られたという話も聞かないから、あっとおどろくような物はでてこなかったのだろう。
さて、いよいよということで外に出る。この遺跡ではボランティアの人が一定時間ごと、いくつかのグループごとに説明をしてくれるらしい。私はひねくれ者だから、まあ適当にみればよかんべ、と思いあまり気にしていなかったが外に出てみるとちょうど一つのグループが出発するところのようだ。よし。あのグループに混ぜてもらおう。
そう思って近づいていくと、どうも変だ。一人が説明すると、その後に別の人が説明を繰り返している。しかもその説明はどうにも聞き取れない。聞き取れないか、聞き取っても意味が理解できない会話というのは今の会社にきて非常に頻繁に耳にするから、気にもとめなくなっているが、しかしこの聞き取れなさは普通ではない。これはどうしたことか。
そのうち2度目の説明は韓国語で行われていることに気がついた。そう思ってよくよく周りを観てみるとこのグループは韓国人の団体がそのほとんどをしめているようである。引率の先生らしき女性は三内丸山遺跡のパンフレット、ハングル文字版を持っている。
瞬間
「このグループはこの韓国人団体専用のものではないか」
と思ったがそれであれば日本語で説明をしている人がいるのは腑に落ちない。となればとにかくついていこう。
遠くから観たとき、あちこちに小屋のようなものがあるのには気がついていた。まずその中にはいると、かの有名な6本の太い丸太を立てた跡がある。残っている証拠はこの穴と穴の中に残っていた丸太の一部だけだから本当のところ上に何があったかは解らない。さっきみた展示室の中にも3通りの推定復元模型があったが、そのうち一番単純なものは単に6本の柱がつったっているだけだった。あれこれ推定したところでタイムマシンでも発明されない限り正解が解ることはない。いっそのこと
「この跡から何か面白いものを想像してください」
というコンテストでもやってはいかがなものだろうか。
次の小屋の中には子供専用の墓がある。通常使われるのと同じ土器の中に子供をいれて埋めたらしい。土器はわざわざ一部を壊してある。この理由に関して、またあれこれの説が唱えられているらしいが、私としては間抜けな奴が
「いやー。土器がおちてたよ」
と喜ぶのを防止するためではないかと思うのだが。今でこそ道ばたに何か面白いものが落ちていても拾わないが、子供の頃であれば、喜んで拾って親に見せたと思う。立派な器を拾ってきたと思って大得意で母に見せれば、母は悲鳴をあげる。そして
「こうした事が起こることは子供の教育上実によろしくない影響を与える」
などと集会で力説し、
「ではそうした間違いを防ぐために、これからは埋葬用土器の一部を壊しておくことにしよう」
と決議がされる。そうしてその取り決めは施行されるが、そうした理由を覚えているのも数世代まで。いつしか
「なんでわざわざ土器壊すんだよ」
「知らないよ。昔からそう決まってるんだよ。さっさと穴あけろよ」
となるのではなかろうか。
そんな事を考えている間に今度は外に出る。例の丸太跡の形に従って復元された「物」は外に雄々しくそびえ立っている。何でも使った木はロシアから持ってきたとのこと。こうした内容は日本語でひとしきり行われ、それが終わった後で韓国語の説明がなされる。よくよく考えるとこの韓国語をしゃべっている人はよく内容を覚えているものだと思う。あるいは結構省略して訳しているのかもしれないが、私には韓国語がわからないので事の真偽は闇の中だ。
一行は時間があまりないらしく、いくつかの説明を省略しているようだ。私はだいだい聞くべきことは聞いたと勝手に判断し、離れて歩き出した。
家族用の住居がいくつか並んで復元されている。またそこから離れたところに集会用とおぼしき大きな建物も復元されている。家庭用住居の入り口に立ってその大きな建物を観ると、遠い昔にあの建物を観たであろう男の気持ちなどに思いをはせてしまう。
だいたいこうした古代遺跡などという物には
「古代のロマン」
というキャッチフレーズが付き物だ。この「ロマン」なる単語が何を意味しているかしらないが、あまり悪い意味では使われていないと思う。
遠く離れた古代にどんな思いをはせるかは個人の自由であるが、私の頭にまず飛来するのは
「人間の社会には時代とともに変わるものもあれば、変わらないものもある」
という信条だ。そりゃ確かに縄文時代には文字はなかったんだろう。ってことは記録は残らないし、多くの人が同じ情報を共有することは大変難しかった。これは確かに大きな違いだ。
では変わらない物とは?チンパンジーの群をみてその行動様式に我々と似た要素を認めるとすれば、それは時代や環境どころか種や属を越えて類に共通する性質がある、ということなのだ。となればそうした要素が年代だけをへだてた縄文時代に無かったと考えるのはどうにも不合理である。そう考えながら大きな集会場とおぼしき建物を観ながら私に浮かぶのはこのような思いだ。
彼は家の戸口に立って陰鬱な思いで集会場を眺める。ああ。今日の集会もきっと延々と無意味に続くに違いない。何が起こるかは解って居るんだ。
あんな無意味な集会で座っている位であれば病気だとかなんとか言って家に居る方がいい、と一瞬思ったりもする。しかしそういうわけにもいかない。我が家も今や安息の場ではないのだ。うちの妻は最近うちの立地条件に文句を付け始めている。やれ水はけがわるいだの、やれ木の陰になっていて日当たりが悪いだのだ。そして決まって
「○○のおうちはあんないい場所にたっているのに。いつも○○の奥さんは自慢げにしゃべるのよ。それを聞いているあたしの気持ちが分かる?」
と責め立てるのだ。
妻の言うことは事実だからしょうがない。実際○○の家はうちよりもずっといいところに立っている。何故そんな一等地に家が建てられたかといえば、親愛なる我々の長と○○の奥さんができているからだ、ともっぱらの噂だ。そりゃ○○の奥さん美人だもんな。おとがいはつんと前にでてるし。そんなにくやしかったら長と浮気の一つでもしてみろ、と心の中で思うが、つるんとしたおとがいの妻を観るたびに
「ああ。不憫であることだな」
とその言葉を飲み込む。
あの長の野郎はろくな脳味噌ももたず、技も持たないのにムラの長老として居座ってやがる。そしてそれだけの理由で女に手をつけほうだいだ。しかしこれがこの世の習いというもの。権力は不合理を正当化し、(ある)女は権力に、そしてそれに繋がっている実利になびく。愚痴を言ってもしょうがないとわかってはいるのだが。
足下に落としていた視線を遠くやってみる。集会場の向こうにはぼんやりと6本の丸太が立っているのが見える。正確に言えばそのうちちゃんと立っているのは3本だけ、残りの3っつは穴だけだ。
あれはなんなのだろう、と子供の頃から考えていた。いつも両親の曖昧な言葉にごまかされてきたが、今では解っている。あれが何の為に立っているのかは今や誰も知らない、ということを。しかしそんなことはおかまいなしに
「本当の理由を知っているのは俺達だけだ」
という2派が日々争いに明け暮れている。
元々6本あったようだから3本を立て直すべきだ。それこそが神の意図だという一派は自分達を六本派と呼んでいる。そして6っつの穴の半分だけに木が立っていることこそ神の意志だという一派は三本閥と自称している。
最近の集会ではその六本派と三本閥の議論ばかりが繰り返される。もともと根拠薄弱な主張だし、前回議論した内容なんか覚えていられないから、同じネタを何度も繰り返しているだけだが。しかしどちらもすごい迫力だ。そりゃそうだろう。彼らは
「神の意図を守り、誤った意図をひろめようとする悪魔と戦っている」
のだから。
あの馬鹿長はどちらに組みすることなく、目を閉じたまま議論を聞いているフリをし、最後に全く意味不明の演説を延々と行う。それで奴は長として議論をまとめようという立場をアピールしているつもりなのだろうが、単に自分の立場を曖昧にすることが保身のために有効な手段だと知っているにすぎない。そうやって議論が続いている間は己の無能さに関しての糾弾がなされることはない、と知っているのだろう。
それにしても神様がいるとすればずいぶんと意地悪だ。正解を一言教えてくれるだけでこのくだらない言い争いを終わらせることができるじゃないか。両親は神様というのが確かにいる、と教えてくれた。それは時に厳しく、時に優しく我々の生活を守ってくれるはずのものだった。しかし現実の神様はずっと意地悪なようだ。こちらがどんなに祈っても柱が3本であるべきなのか6本であるべきなのかすら教えてくれない。そして言い争いはいつまでもいつまでも続く。
時々
「何故こんなわけのわからない議論に時間をつぶせるのか。何故あんな無能な人間が長でいられるのか。何故こんなに真面目にやっているのに妻の愚痴を延々と聞かされるのだ。」
と考える。そして今とは違った昔の時代に思いをはせるのだ。
父から聞いたところでは昔の生活はもっと動的で変化に富んでいたらしい。男は家族をひきい、獣を追い、木の実を探し、己の知恵と力で生活をなしていた。そうした時代には男は有無を言わせぬ家族の長であったのだ。妻が文句を言えば、対処は簡単。
「あそう。じゃおまえの食事はなしだ」
と言えばよかった。それに六本派だの三本閥だの意地悪い神様の意図を推定することで延々時間をつぶすこともなかった。もし自分がたてた推定があっていれば、食物にありつけ、間違っていれば飢える。ただそれだけのシンプルなルールに従って白黒はすぐにつくのだが。
ところが今や時代は変わってしまった。今からそう遠くない過去に決まった場所に住み、作物をそだてることを発明した奴がいたらしい。それからと言うもの「頭を使う」という言葉の意味は変わってしまった。やることと言えばくる年来る年同じ事を繰り返すだけ。そして過去からのやり方をたくさん記憶し、忠実に再現することが出来る奴が
「頭がいい」
ということになってしまったのだ。
正直言えば、未だにその「昔風の暮らし方」をしている人たちもいる。彼らは自分がとった獣とここで育った作物を交換しに時々ここに来る。彼らの姿は印象的だ。敏捷そうで引き締まった体をし、目はするどく光っている。
しかし彼らは一様にやせている。そして同じ人間が次の年もくることはあまりない。そして年寄りは見かけたことがない。それが何によるものかは考えたくもないが。彼らは確かに自分の技と力と知恵で生きている。しかしどうやらその生活はとても不安定らしい。一つ判断を間違えればその結果は冷酷なものとなり、再びこの地に訪れることはない。
そう考え視線を再び足下に落とす。目にはいるのは自分の腹だ。決してでているとは言わないが、彼らにくらべればかなりたるんでいる。わけのわからない集会につきあい、妻の愚痴を聞かされ、腹をたるませることが平和で安定した生活の代償というわけか。ふと視線を遠くにやり森と山をみる。それらは
「今の生活に文句があればいつでもおいで」
と言っているように思える。そして最後にこうつけくわえるのだ。
「おまえにそのガッツがあればの話だが」
もう何度こうした事を考えただろう。そしてため息をつきながらあの無意味で延々とした論議が待っているであろう集会場へとぼとぼと向かうのだ。。。
こんなことを考えながら集会場を復元した建物にはいってみる。妙な集会、そこで延々と続く論議、あるいはつるしあげ、などがふと目の前に現れるような気がする。いかん。こんな事を考えていても厭世的になるだけだ。
もう観るべきものはみたようだ。先ほどのバス停に戻る。青森駅に戻るバスが極端に少ないことに驚く。5分ほど前にバスがでたようだが、次のバスは1時間近く後だ。理論的にはまたゆっくりと展示をみるのが賢明と思えるが、正直言えばかなり疲れており、そして外は例によって快適とは言い難いほど暑い。私はしばし唖然とし
「なぜ行きのバスは結構多いのに、帰りのバスはこうも少ないのか」
と考えたりする。ふと気がつくとバス乗り場の近くにはタクシー乗り場があり、たくさんのタクシーが乗客待ちをしている。すっかり厭世的になっている私は
「ひょっとすると、これはタクシー業界と青森市が結託してタクシー業界への便宜をはかっているのではないか」
などと陰謀めいた事を考えてしまう。いかん。とにかくさっきのゲストハウスに戻り時間をつぶすことにしよう。
中にはいってみると、さすがに涼しい。この涼しさは今の私にとってなによりもありがたい。おみやげなどもあれこれ売っているが、別に眺める気にもならない。どうせあるのは共通のお菓子に、観光地向けの個別の名前だけつけたおみやげばかりなのだ。
そう思ってふらふらしている私の前にあるポスターが現れた。先ほどの丸太をバックにして、あやしげな服をきた演歌歌手とおぼしき男が写っている。そして
「古代のいぶき」
とかなんとかいう題名が書かれている。うむ。やはり歌を作ることを考えたやつがいるのか。はたしてこの歌は何度歌われたのだろう。そしてこのCDは何枚発売されたのだろう。そのジャケットを観るだけで、そのCDに記録されている音楽が分かるかのようだ。
しばらく呆然とすわっていると時間は結構ご機嫌にたってくれる。タクシー業界の陰謀(と私が考えているもの)に一時はのせられようかとも思ったのだが、ようやくバスが到着した。
正確に言うとこのバスは青森駅行きではない。なんとかいう小学校で降りると青森駅には便利でございます、と案内がでているので乗ってきたが、実際その停留所についてみるとどちらに青森駅があるのかわからない。そして同じバスに私と同じ立場の観光客も何人か乗っていたようで、しばらくバスの停留所の近くできょろきょろしている。
あまりきょろきょろしていてもしょうがないので私は自分の勘が示す方向に向かって歩き出した。するとそこできょろきょろしていた同志も私の後についてきた。
「俺も何も知らないんだ。もし間違っていても俺を非難しないでくれ」
と大きな声で言いたいところだが、そんなことをいきなりするわけにも行かない。幸いなことにそのうち青森駅らしき建物が見えてきた。
駅前に行くと、言われたとおり、宿泊案内所がたっている。プレハブのような小屋だからおそらくねぶた祭り用の臨時案内所だろう。おそるおそる
「あの。今日の宿はありますでしょうか。。」
と聞くと相手はまってましたとばかり
「はい。ございます。朝食つきで一万円のはいかがでしょう?」
と聞く。こちらは
「あんた。当日にきて宿がとれると思ってるの?おとといいらしてくださいませ」
と言われるかと神経質になっていたところなので喜んで
「ではそれで」
とお願いする。すると案内所の中では前の列に座っていて客の相手をする人と、後ろの列に座り、書類を書く人が見事な分業体制をとっていて、さっさと紙がでてくる。なんでも2時半すぎにこの紙をもってホテルに行けとのこと。まだまだ時間がある。私は駅前通をとぼとぼ歩き出した。
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